『山田孝之の東京都北区赤羽』映像作品に何ができるか?――切迫感が担保したフェイクドキュメンタリーの強度

批評家・宇野常寛が主宰するインディーズ・カルチャー誌「PLANETS」とサイゾーによる、カルチャー批評対談──。

宇野常寛[批評家]× 松谷創一郎[ライター/リサーチャー]

 15年冬クール、1本のドラマが「なんか変なことをやっている」と視聴者の間で話題になった。それが本作だ。知る人ぞ知るコミックエッセイを原作に、俳優・山田孝之を主演に据えた作品は、どこまで本当でどこから演技演出なのかわからない奇妙さで観る者を楽しませた。この作品が今テレビドラマとして放映された理由を考えてみたい。

山田孝之の盟友・綾野剛も登場。(写真左端)。山田が暮らす部屋を訪れ、ふたりで赤羽を闊歩していた。

宇野 朝日新聞の連載コラムで、この作品について「フェイクドキュメンタリー最後の傑作」と書いたんですよ。それに対して、映像ディレクターの大根仁さんがテレビブロスの連載で「あれは果たしてフェイクだったのか?」と書いていた。それは「撮影に参加したら、山田孝之の様子がおかしかったから」ということだったんだけど、なんだか話が噛み合っていないと思った。ある程度まで作り込んで、ある程度はガチンコで生の反応を撮るのはフェイクドキュメンタリーの常套手段でしょう?

松谷 大根さんは「フェイク」という言葉に引っかかったんじゃないかな。『東京都北区赤羽』(以下『赤羽』)と同じく役者が主演しているフェイクドキュメンタリーで、『容疑者、ホアキン・フェニックス』【1】という映画がある。作中で主演のホアキンはぶくぶく太ってヒゲを生やして奇行に走ったりしているんだけど、演出があったにせよ、太ったことや奇行に走ったことは、事実として残る。山田孝之で言えば、現実にある北区赤羽に放り込まれ、そこで生きている生身の人たちと交流したのは紛れもない事実。そこはいくら山田孝之が芝居をしようとしても、ほころぶ瞬間が必ずあって、それこそが面白い。つまり、この手の作品を語るときに、嘘と本当がきっぱり分けられるようなイメージを持ってしまうこと自体がおかしい。ただそんなこと、大根さんは百も承知だと思うので、あえて内側の人間として番組のコンセプトに乗っかったのかもしれませんけどね。

宇野 まぁ、とにかく僕が指摘したかったのはYouTubeで少し検索すれば世界中のリアルで面白い映像を無料で観賞できて、そしてその映像がどこまで真実かもわからない今にあって、作家が一生懸命どこまで“嘘”でどこまで“本当”かわからないものを作り上げて、そのグレーゾーンに面白さを見出すフェイクドキュメンタリー的な「映像」は明らかにその存在意義を後退させているってこと。そんな厳しい状況下で、山下・松江両監督はまだフェイクドキュメンタリーだからこそできるものを必死に探し当てようとしているわけなのだけど、要するにその答えとは、存在意義を失いつつある映像を撮ることの自意識を訴えることだったのだというのが僕の見解ですね。そしてこの作家たちの自意識は、作中で描かれる山田孝之の「演じる」ことをめぐる自意識の迷走と、その結果としての自分探しに重ね合わされている。「映像」というものが20世紀に持っていた魔力が解体されつつある時代に生きる、映像作家と映画俳優の迷いだけがリアルだという(笑)。

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