――報道写真。新聞やグラフ誌などのジャーナリスティックな写真をそう呼ぶことが多いが、戦前から戦中、それはプロパガンダと同義になり、日本文化をアピールするための手段にもなった。そんな報道写真のキケンな歴史に、本誌で「写真時評」を連載する小原真史氏と写真史家の白山眞理氏が迫る!
日本の報道写真はどう生まれ、戦争とかかわったのか――。2014年刊行の『〈報道写真〉と戦争』【1】(吉川弘文館)はそのことに迫り、名取洋之助や木村伊兵衛などが戦中に軍の宣伝工作に協力した事実を読者に突きつけた。そんな一冊を著した白山眞理氏と、本誌の連載「写真時評」で写真から戦争を読み解いてきた小原真史氏が、報道写真の隠された歴史をひも解く。
「NIPPON」を宣伝する欧米向けのグラフ誌
【1】白山眞理『〈報道写真〉と戦争 1930ー1960』(2014年/吉川弘文館)【2】「光画」1932年5月創刊号(聚楽社/日本カメラ財団蔵)【3】「Berliner Illustrierte Zeitung」1933年6月4日号(ウルシュタイン社/個人蔵)
小原 『〈報道写真〉と戦争』は、日本写真史の空白を埋める重要な本で、戦後70年たってようやくという感慨もあります。今回は書名にもあるカッコ付きの報道写真について話したいと思います。報道写真というと、新聞写真やジャーナリズムのイメージですが、この言葉自体が比較的新しく、ドイツ語の「ルポルタージュ・フォト」に評論家の伊奈信男が訳語をつけた造語でしたね。
白山 日本の報道写真の父とも言うべき名取洋之助は、ドイツのグラフ雑誌で活動していたのですが、1933年にドイツでジャーナリスト規制法が公布されたことにより、日本での活動を余儀なくされます。それまでの仕事「ルポルタージュ・フォト」を日本で展開すべく、写真雑誌「光画」【2】で活躍していた写真家の木村伊兵衛に声をかけます。それから、木村の盟友でもあった評論家の伊奈信男、デザイナーの原弘らが加わって日本工房が立ち上がりました。伊奈信男は報道写真のイデオローグ的な存在になっていきます。
小原 モダニズムの先鋭として報道写真が始まったといえますね。写真を写真館やサロンにおける趣味の領域から解放し、社会性と芸術性を兼ね備えたものとして報道写真が志向されました。だから、報道写真の担い手の多くは国際感覚豊かなモダニストたちです。
白山 伊奈信男が、人々を引きつけ、社会を動かすための写真ということを主張していきます。名取がベルリン時代に契約していたウルシュタイン社の週刊グラフ誌「Berliner Illustrierte Zeitung」【3】は約200万部発行で、趣味的なサロン写真や写真館の写真とは内容も規模も全然違います。「光画」の仲間は写真の印刷化を考えていたので、そのまま報道写真へと流れていきました。
小原 日本の報道写真の母胎は、日本工房が34年に創刊した「NIPPON」【4】だといえます。欧米にあまり知られていない日本文化や産業を海外に宣伝するために制作された同誌は、名取という写真家兼アートディレクターによって細部までコントロールされており、写真とデザイン、文章の高度な融合がある。表紙は山名文夫や亀倉雄策といったそうそうたるデザイナーが担当し、伝統的かつ近代的日本のイメージを打ち出していきます。
白山 名取は高校卒業後すぐに渡欧したこともあり、コスモポリタン的な感性があった人で、日本を外から眺めることに長けていました。31年に満州事変が起こり欧米で日本への注目が集まった頃にウルシュタイン社で仕事をしていたので、発注されて日本を取材したのです。そのときの写真が世界中に配信され、ドイツで写真家として認められた。欧米向けグラフ誌「NIPPON」には、名取のドイツ経験がふんだんに盛り込まれていますね。