“佐村河内騒動”のあの人が語る、”音楽は誰のものなのか?” 元ゴーストライターが語る音楽家としての”私の矜持”

――あの"ゴーストライター騒動”の張本人として注目を集めながら、積極的にメディアへ露出し注目を集める、作曲家にしてピアニストの新垣隆。そんな彼に、「そもそも音楽とは"誰のもの"なのか?」という、作曲家と音楽、そして聴衆をめぐる本質的な問いについて話を聞いた。

(写真/江森康之)

 2014年2月5日、聴覚障害を持ちながらゲームソフト『鬼武者』の音楽や「交響曲第1番《HIROSHIMA》」などを作曲し、「現代のベートーヴェン」として脚光を浴びていた佐村河内守氏に、ゴーストライター問題が発覚、翌6日には「全聾の作曲家佐村河内守はペテン師だった!」と題する記事を掲載した「週刊文春」(文藝春秋)が発売された。同誌に告白手記を寄せた作曲家・ピアニストである新垣隆氏もすかさず記者会見を開き、自らが18年間にわたりゴーストライターを務めていたことや、佐村河内氏が全聾であると嘘をつき続けていたことなどを公表、大騒動へと発展した。

 それからはや1年がたったが、あの騒動で図らずもあぶり出された、音楽の本質にかかわる問いがある。それは「音楽とは"誰のもの"なのか?」というものだ。

 音楽、あるいは広く芸術的創作物は、しばしば"作者"と不可分なものとして語られる。事実、佐村河内氏の音楽は「全聾の作曲家」というストーリー込みで消費され、絶賛された。しかし騒動後は「全聾の作曲家が書いた曲だから素晴らしいと思ったのに、騙された」などと評価が逆転。またその一方で「曲に罪はない」「名曲であることに変わりはない」といった声も多く聞かれた。

 では、我々はなぜあの音楽を良いと思ったのか? いったい、あの曲の"素晴らしさ"は誰が生み出したのか? 音楽の本質にかかわるこの問いについて、騒動の張本人である新垣氏に話を聞いた。

――あの騒動の渦中、「新垣さんの書いた曲そのものは素晴らしい」「商品回収までするのはやり過ぎではないか」といった声も聞かれました。こうした声についてはどう思われていましたか?

新垣隆(以下、) 騒動と切り離して曲を評価してくれたことは非常にうれしかったのですが、同時に、やはりそれは彼のストーリーと結びついて初めて成り立っていたものでもあります。

――真実を隠していた18年の間、「あれは私が書いた曲だ」と世間に訴えたくなったことはなかったんでしょうか?

 それはもう、なかったといったら嘘になります。ただ、あれはひとつの"プロジェクト"であって、そのためにリクエストされた曲だという自覚も明確にありましたので、ある種のあきらめを持ってやっていました。

――だからといって、いい加減な気持ちで作曲したわけでは……。

 もちろんありません。作曲家は再現性に期待して曲を書くのであって、それは演奏に堪え得るものでないと意味がないし、書いた以上は自分の曲に責任を持たなければいけません。ただ、これを言うとまた曲を聴いて喜んでくださった方々に怒られてしまうのですが、例えば『HIROSHIMA』は、あくまで"クラシックっぽい曲"であって、自分としてはいわば、"クラシックのサブカル"的なものとして作ったんです。

――あの曲はクラシックではないと?

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