――沼地だったド田舎の江戸を家康が開拓した――とはよく知られたストーリーだが、その裏には、家康のある“覚悟”があった!?戦国末期と江戸末期、なぜ“江戸”という土地が選ばれたのか? 江戸の歴史を踏まえて考える、ちょっとナナメな皇居ガイド!
■玉音放送など数々の歴史の舞台に
皇居前広場
江戸期には西の丸下と呼ばれ、有力譜代大名や老中・若年寄などの大名の屋敷跡が立ち並んでいたが、明治以降、広大な広場となり、権力と民衆の斬り結びの場として、玉音放送、血のメーデー事件など、さまざまな歴史の舞台となっていく。現在は、砂利部分と芝生・黒松が植わった部分に分かれ、内堀通りが真ん中を貫いている。
■後醍醐天皇に味方した武将の巨大像
楠木正成像
1331年、鎌倉幕府倒幕計画を立てた後醍醐天皇と共に挙兵した楠木正成の像。皇居外苑の一角にあり、明治33年(1900年)に住友財閥が献上したもの。上野の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と共に、「東京の三大銅像」のひとつとされる。顔を皇居から背けるのは失礼に当たるということから、顔が記文で示された正面とは反対方向の皇居側を向いている。
■明治の面影かおる銅板葺きの重厚さ
宮内庁庁舎
昭和10年(1935年)竣工された。現在の庁舎は2代目に当たり、鉄筋コンクリート造りの銅板葺きの建物。明治宮殿が焼失した昭和27年(1953年)から昭和43年(1968年)の間は、3階部分が改装されて、仮宮殿として使用されていた。
■天守閣は江戸初期の50年だけ
天守台跡
普段から一般公開されている東御苑の中にあり、皇居のみどころのひとつ。現存する国内最大の天守台。3代目の天守が明歴の大火(1657年)で焼失、翌年、加賀藩により天守台のみ築き直された。本来の天守台は約14メートルの高さの穴倉構造だったというが、現在では南東の隅部分を残してほとんど埋め立てられてしまっている。
■香淳皇后にちなむ八角形の音楽堂
桃華楽堂
天守台跡と同じく東御苑の中にあり、昭和41年(1966年)、昭和天皇の皇后である香淳皇后の還暦の記念に建てられた。音楽好きであった彼女にちなんだ音楽堂である。宮内庁楽部の演奏の場となっており、200人を収容可能。八角形の各側面には、春夏秋冬、雪月花、松竹梅などをテーマとしたモザイク画が描かれている。
(写真/江森康之)
日本の中心が東京だとすれば、東京の中心は皇居だろう。皇居とは、いうまでもなく天皇の住居である。住所表示は東京都千代田区千代田1番1号と、まさに東京都のド真ん中。総敷地面積約115万平米を誇り、豊かな自然溢れるその敷地内は、「都会のオアシス」的な観光スポットとしても人気を博している。近年はお濠の周りを走る「皇居ランナー」も急増中だ。
この皇居一帯は、徳川将軍家の居城である江戸城の跡地にあたる。言い方を変えれば、初代将軍・徳川家康がこの地に幕府を開いたことで江戸の町は大発展を遂げ、明治以降は京都に代わる新たな首都として天皇を迎えるに至ったわけだ。
家康入府以前の江戸はただの沼地で、そこを開墾し、埋め立て、水路を整え、それがのちの江戸、さらには東京の大発展に繋がった……とは、歴史に詳しい読者なら見聞きしたこともあるだろう。
では、なぜ家康は江戸を選んだのか?たまたま秀吉に転封されたから? 広大な関東平野の可能性を信じて? いやいや、そこに家康のある”覚悟”があったとしたら……? 本稿では、「なぜ江戸でなければならなかったのか?」「なぜ東京でなければならなかったのか?」という問いをひとつの批評軸として、東京の中心「皇居」のありようを、その礎たる江戸城からひもといてみたい。