【イカ焼】――イカ焼を食べた。他の"粉もの"と一線を画するその食感の正体とは……

――上京して数十年、すっかり大坂人としての魂から乖離してしまった町田康が、大坂のソウルフードと向き合い、魂の回復を図る!

photo Machida Ko

 奇怪な海洋生物の女性が教えるところにしたがって、プッシュー、と音がするまで電子レンジで加熱して食したイカ焼の、その味はどんな味だったか。

 それは間違いなく少年の頃の記憶の味であった。どんな感じかを具体的に申し上げると、そうした薄力粉を水で溶いて焼き固めた料理、最近の言い回しで私はこの語彙をあまり好まぬ、いやさむしろ憎んで撲滅したいと思っているのだが、いまのバヤイは仕方ない、断腸の思いで申さば、所謂、粉もの。以前、自ら作成して無慚なこととなり、死ぬしかないのかな、というところまで追い詰められた好み焼を筆頭に、蛸焼、文字焼などがあり、それぞれ個性というか、売りがあるようなことを言っているが、はっきり申し上げて、同じ、粉もの、という範疇に属しながら明確に一線を画しているように思え、イカ焼の立場からすると、それらはどれも同一線上にあるもののように思えてくる。

 つまり、ひとりイカ焼のみが屹立している。そんな風に私には思えてならない。

 どこがそんなに違うのか。まあ、それら同一線上にある者、或いは、それを支持する者の立場から言えば、「彼はイカ、我はタコ。そら違うわな」とか、「形状がまるで違うものな。ありゃ、どちらかというとクレープの仲間だよ」と言ったようなことを言うのかも知れない。

 はっきり申し上げる。そういうことじゃないんだよ。事の本質はそこにはないんだよ。「じゃあ、どこにあるんだよ」ほほほほ。わからぬ人だな。自ら、粉もの、などという下品な名乗りを敢えて名乗るのであれば、それくらいわかれ。本質は粉にある、というとわからぬか。粉を水で溶いて焼き固めたものの味にあるのであって、そうした具とか、形状とかにあるのではないっ。

 つまり、具がタコであっても、形状が円であっても四角であっても、イカ焼はイカ焼であって、その他のものではないのである。

 というとなにを宗教みたいなことを言っているのだ、と思う方もあるだろう。けれども私は神を語っているのではない。信仰を語っているのでもない。味について語っているにすぎない。でも、味というものの、ぎりぎりの肝要のところを語っている。

「じゃあ、その肝要とやらについて語ってみろよ」黙りなさい。粉もの。これから語るところだ。「私は粉ものではありません。私には文字焼という名前がありますっ」

 そのぎりぎりの肝要のところは、焼いた生地の、モチモチした、感触である。そう、イカ焼には、好み焼にも蛸焼にも、ましてや主に関東戎夷の食すところの文字焼などにはけっしてない固有の、モチモチした感触があるのである。

 その一片を口中に投じた瞬間、ツルッ、とした、コーティングされたような感触を舌に感じる。そして次の瞬間、抵抗感とともにそれが弾け、その皮膜の裏側にある、ある意味、従属のような、別の意味では団結のような、そんなものが崩壊した抵抗感と渾然一体となって、口中にひろごりて嚥下されていく。その抵抗感と一体化した従属と団結、それがモチモチ感の正体であり、すなわち、ギリギリの肝要の部分である。

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