――音楽活動をメインとしながら、自身のアパレルブランドを立ち上げるアーティストは少なくないが、成功する者はほんの一握りといっていい。そんな両者の深き関係と、ブランド継続の秘訣を、おしゃれアイコンとして活躍するアーティスト、MEGに問う。
2002年、岡村靖幸プロデュースのシングル「スキャンティブルース」で音楽業界に彗星の如く登場したMEG。アーティストとしてデビューする以前から『Cutie』(宝島社)や『Zipper』(祥伝社)などのファッション誌にモデルとして登場し、時には表紙を飾ったりと、ファッションアイコンとしての側面も持ち合わせていた。そんな彼女は、精力的な音楽活動に加え、自らデザイナー/プロデューサーを務めるアパレルブランド「Carolina Glaser」(カロリナ・グレイサー)を06年に立ち上げたことで、ファッション業界からも耳目を集める存在となった。
MEGをはじめ、国内外問わず音楽業界には自身のアパレルブランドを持つアーティストは数多く存在する(詳細は別項を参照)。しかし、気がつけばブランドが倒産していたり、音楽活動から撤退しアパレルビジネスがメインになっていたりと、なかなかどうして音楽とファッションの両立は難しい。また、アーティストが自身のブランドを立ち上げるという動きに目を向けたとき、ことダンスミュージックを主戦場とするアーティストのほうが、親和性が高いように見受けられる(実際にロック畑のミュージシャンなどは自分のアパレルブランドを持つ、というよりは、既存ブランドとのコラボ商品が多い)。
なぜ、その手のジャンルとアパレルの親和性は高いのか? 本稿では、その密接な関係性の根幹と、アーティストがアパレル業務を並行したときの内情を知るべく、音楽とアパレルを見事に両立させているMEGに話を聞く。
夜鍋作業から量産へ 売り上げは数億円に
――そもそも音楽活動をメインとしながら、自身のアパレルブランドを立ち上げようと思ったきっかけは、なんだったのでしょうか?
MEG 02年にワーナーミュージックからメジャーデビューが決まっていて、高校卒業と同時に地元広島から上京してきたんですけど、デビューまでに準備期間が約3年間くらいあったんですね。その間にファッション誌のモデルの仕事をいただくようになり、いつしか表紙も飾らせてもらえるようになりました。
そこで〈1週間コーディネイト〉や〈1カ月コーディネイト〉といった企画もやるようになって、ファッション誌に出るときは、だいたい私服で。もちろん、ギャランティもなく……というか、請求書の書き方とか知らなかったからか(笑)。1週間コーデならまだしも、1カ月となると必然的にお金も洋服も足りなくなってくるんですよね。なので、いっそのこと自分で洋服を作るか、と思って。
――そのときからゆくゆくは自身のブランドを立ち上げたい、という気持ちがあったのでしょうか?
MEG こんなに長くやるとは予想してなかった(笑)。最初は(企画に合わせた)自分コーデ用の洋服を作ることがメインとか、そんなもので。でも、雑誌に出て、自分の作った洋服や帽子を着用して、プロフィール部分にメールアドレスと、『この商品が欲しい方はこちらまで』という一文を載せたら、その帽子が150個前後売れたことがあったんです。それが02年くらい。
当時はガラケー時代でもあり、インターネットもオンライン通販も今ほど容易なものじゃありませんでしたから。服飾の学校を出ていたわけではありませんでしたが、裁縫やリメイクは好きだったので、オーダーがきてから手縫いで夜なべしながら作ってたのが、”お手製量産&通販”の始まりですかね。ほかの洋服も作りたいと思うようになってからは、友だちから『業者に頼めば短期間で量産できる』と助言してもらい、資金を貯めて原宿のマンションの一室を借りて始めたのが、私のブランド『カロリナ・グレイサー』の原型です。ワーナーからデビューしたのも、この時期ですね。
――売り上げも伴っていたから、ブランドを立ち上げた、と?
MEG そうですね。ありがたいことに取引先が増えたりオーダーの数も増え、気がついたら3年後くらいには数億の売り上げを立てることができていて。それまでは個人事業だったんですが、税理士さんから、『さすがにいろいろ大変だから法人化したほうがいい』と言われ、その年に法人登記して今のオフィスとなる株式会社を立ち上げました。
インターネットが一般的になってからは、今度は夜な夜なサイトデザインや構築のほうにハマって、古着と自社ブランドのオンライン通販を始めました。最初は2人だけでスタートした事業でしたが、06年には原宿に直営店がオープンし、従業員の女の子たちも10人以上になり、地方のショップや商業施設にも卸すようになりました。
――音楽活動との両立は困難ではありませんでしたか?
MEG 音楽活動と共にモデルの仕事やアパレルの仕事も並行しながら、(当時籍を置いていたマネジメント)事務所からの独立と共にワーナーとの契約が満了したんですが、『音楽って自分にとってなんなんだろう?』という疑問はありました。でも、そんな矢先に05年の『WIRE』【編註:電気グルーヴの石野卓球主催でスタートした日本最大規模のテクノフェス】に出演させてもらったことがあって、そのときに心の底から『ダンスミュージックって楽しい!』って感じることができて。それからはみんなが踊れて、一体感を得られるダンスミュージックに特化した音楽を作りたい、と思うようになったんです。
――それが再度メジャーデビューを果たす07年の、中田ヤスタカ・プロデュースのシングル「OK」になるんですね。
MEG マンションの一室を借りて作業していたときに、隣の洋服屋さんによく来ていたのが中田くんだったんです。それが縁となって、音楽にも再び本腰を入れることになりました。それ以降、結構ハードな動きになりましたかね。