SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。
食糧問題がすなわち飢餓の問題であり、労働問題が主として失業問題であるのと同じく、友だちにまつわるあれこれは、最終的に、孤独の問題に集約される。別の言い方をするなら、我々は、もっぱら孤独であることから逃れるために友だちを求めているのだ。
当然、反対意見はあるはずだ。
「そんなことはない。別に淋しいから誰かに会おうってわけじゃないし、一緒に時間をツブせる野郎なら誰でも良いというのでもない」
「会って話すに値する人間だからわざわざ時間を作って一緒にツルむわけで、別にひとりでいるのが苦しいとか辛いとか、そんな女々しい話じゃないぞ」
と、怒りをあらわにする向きもあるだろう。
でなくても、「友だち」の問題を、自分の親友に固有な人格的な問題として考える人は、少なくない。
そんなわけで、友情の問題を一般論として扱う態度は、友情の価値を信じる人々の感情を傷つける。
「オレたちの友情は特別だ」
と思いたがるのが、友情について考える人間一般に観察される傾向だということでもある。
しかしながら、ということはつまり、自分たちが特別だというとらえ方そのものは、実にもって凡庸極まりない考え方でもあるということになる。
意地悪を言いたくてこんな話をしているのではない。
一対一の関係は、恋愛でも友情でも、当事者にとっては特別なものだ。それはよくわかっている。しかしながら、どんな一対一関係であっても、外から観察する者にとっては、ありがちな一般例にすぎない――という、このこともまた動かしがたい事実なわけで、とすれば、人類一般にとって、人類一般の友情は、凡庸な出来事なのである。
飼い猫は、飼い主にとって特別な猫だ。
一方、飼い主でないほとんどすべての人間にとって、他人の飼い猫はただの猫にすぎない。であるからして、飼い主が自分の猫について語るエピソードは、ほぼ必ず聴き手を退屈させることになっている。
友情の話でも恋バナでも、理屈は同じだ。