――当連載でも取り上げた遠隔操作ウイルス事件は、被告の全面自供によって新たな展開を迎えた。多くの報道の中には、被告の虚言はもちろん、それを見抜けなかった弁護団への批判も散見できたが、そもそも、なぜこの事件が大きく取り上げられたのかの論点がまるで抜けている。映画『それでもボクはやってない』の周防監督と共に、改めて核心を考えてみたい。
[今月のゲスト]
周防正行(映画監督)
『それでもボクはやってない スタンダード・エディション』
神保 今回は、最近大きな動きがあった遠隔操作ウイルス事件でも問題になった、日本の刑事司法が抱える深刻な問題について議論したいと思います。
宮台 近代裁判のあるべき本質として、司法的真実と絶対的真実のどちらを優先するかという分岐において、前者すなわち適正手続を重視することがあります。つまり、絶対的真実においてはその人間が罪を犯していたにせよ、検察がそれを十分に立証できない場合には、無罪にしなければならない。日本では、このことがほとんど理解されていません。
神保 どんなに怪しく見えても、合理的な疑いを差し挟む余地のないほどまで犯罪が立証されない限り、司法的真実としては無罪にならなければならないということですね。
今日のテーマに最適なゲストをご紹介します。映画監督の周防正行さんです。周防さんは映画『それでもボクはやってない』で痴漢冤罪事件を描いたことをきっかけに、刑事司法改革について議論する「新時代の刑事司法制度特別部会」の委員を務めています。この長い名前の部会ですが、この中には周防さんのほかに、法曹界以外の人はどのくらいいるのですか?
周防 日本たばこ産業株式会社顧問の本田勝彦さん、被害者支援都民センター理事の大久保恵美子さん、日本労働組合総連合会事務局長の神津里季生さん、北越紀州製紙取締役の松木和道さん、元日本経済新聞社論説委員の安岡崇志さん、そして障害者郵便制度悪用事件で無罪になった村木厚子さんがいます。法制審議会にこのような多数の非法律家が参加することはほとんどないようで、その意味では26人中19人が法曹・法務関係者であっても「ずいぶんマシだ」と言われました。しかし、この部会には警察・検察OBなども「幹事」という立場で参加しており、総勢40人を超えるメンバーを見渡せば、少なくとも「取り調べの全面可視化」などに諸手を挙げて賛成する人の数が少ないであろうことは、すぐにわかります。
神保 周防さんが挙げている刑事司法の論点は、大きく「取り調べの可視化」「証拠の全面開示」「人質司法の解消」の3点です。そして4月30日、この3点について事務局、つまり法務省のお役人から試案が出されています。現時点での骨子は、「取り調べの可視化」については、A案として「警察・検察とも裁判員対象事件のみ」、B案として「警察は裁判員対象事件のみ、検察は裁判員対象事件+身柄事件」、いずれも「可視化で十分な供述を得られないと認められる場合」は可視化はしなくていいという内容になっています。「証拠の開示」については、「検察保管の証拠の一覧表を交付」。証拠の開示規定や手続きには言及していません。「人質司法」については、「身柄拘束に関する判断の在り方についての確認的な規定を設ける」というくだりがあるだけです。
いずれの案でも警察の取り調べの可視化を謳っているのは裁判員裁判の対象となる事件だけで、これは刑事事件全体の2%程度に過ぎません。98%の事件は、そもそも可視化を検討する対象にさえなっていない。つまりこれは、周防さんの映画のテーマとなった痴漢事件や、そもそも今回の司法改革の呼び水となった村木厚子さんの郵便悪用事件などは、いずれも可視化の対象にならないことを前提に、議論が進んでいるということになります。
周防 「取り調べの可視化」のB案に関しては、私を含めた5人の非法律家が意見書を出したために、かろうじてこのようになったのだと思います。しかし、「参考人の取り調べの録音・録画」は含まれていない。参考人にも、限りなく被疑者に近いケースから、目撃者や、ただの通りがかりの人までいます。これらすべてとなると数が多すぎる、というのは理解できなくもない。しかし、被告人以外の供述調書について、法廷での証言より取調室で話されたことのほうに特に信用すべき理由があるとして、調書が証拠採用されるという「2号書面」の問題があります。法廷で証言したことより、密室で作られた調書のほうに信用性があるかどうか判断するのですから、参考人の密室での取り調べも可視化すべきです。
また「証拠開示」についても不満があります。私が主張しているのは、事前一括全面証拠開示。これに対する反論として予想されたのは、「関係者のプライバシーを侵害する恐れがある」「他の事件の捜査にも影響を及ぼす可能性のある証拠は開示できない」というものでした。
しかし、予想しえなかった反論として、「事前に被告人にすべての証拠を開示したら、すべての証拠に矛盾しない言い訳を考えるからダメだ」というものが出てきました。すべての証拠に矛盾しない言い訳ができたら、それを「無罪」と言うのではないでしょうか。これは「被告人は嘘をつく(有罪推定)」と宣言しているようなものです。
神保 つまり、検察側がすべてのカードを見せずに、後出しがアリの状態でゲームを進行したいということですね。限られた事件について、そして証拠のリストが開示されただけで、どこまでその内容がわかるのかも疑問です。「人質司法」についての「身柄拘束に関する判断の在り方についての確認的な規定を設ける」とはどういう意味でしょうか?
周防 具体案として弁護士委員から、勾留と在宅の間に中間的な処分を作るべきだという提案があったのですが、なかなかうまくいかず、結局、「勾留は著しく人権を侵害する行為なので、厳密に取り扱われるべきである」というような趣旨の規定を設けるというのが精一杯でした。そもそも部会では、人質司法という問題があることを認めない人が多数います。