役所広司も激怒。ヤラセドキュメンタリー『ガレキとラジオ』に想うこと

 ドキュメンタリー監督である松江哲明氏が、タブーを越えた映画・マンガ・本などのドキュメンタリー作品をご紹介!

『ガレキとラジオ』公式HPより。

 ヤラセ問題でも話題になっている、映画『ガレキとラジオ』(2013年公開)は、ドキュメンタリーのタブーを超えていない。

 11年に起こった東日本大震災の後、南三陸で生まれたFMみなさんの活動を追う本作を、僕はドキュメンタリーとしてつまらない、と思った。

 避難所の体育館の廊下の隅に作られたラジオブースの、急ごしらえなその場所は、もっと工夫して撮ればより魅力的に映るはずだった。放送局のスタッフで登場人物のひとり、元ダンプ運転手でシングルファーザーの和泉さんと、反抗期真っ最中である彼の子どもたちとの会話は、強い父親であろうとする和泉さんと、口答えすることでいい格好をしたい息子の「カメラを意識した緊張感」が伺える。だが作品の制作者は父親の側からしか映さない。

 何よりあの優しくも厳しい声を持つ役所広司を、死者に見立てた「僕」というナレーションには不愉快な気持ちにさえなった。全体的に、制作者の期待する「物語」ありきのドキュメンタリーだったと思った。

 しかし本作が今後、日本のドキュメンタリーの歴史でタブーを超えた作品として認識されることは間違いない。

 周知のように、本作にはヤラセ問題が報道された。朝日新聞によれば、登場者の一人であるおばあさんが、実はラジオの電波が届かない避難場所にいた為、スタッフが用意したCDラジカセで収録した音源を聞き、台詞を指示したそうだ。

 確かに海を前にして想いを語るシーンに過剰な演出を感じた。どこかわざとらしく、あざとい。きっと僕はその報道を知らなかったとしても、このシーンには違和感を持ったと思う。

 なぜならおばあさんが発した言葉は、他のシーンと比較しても明らかに「作りもの」っぽかったからだ。

 娘と孫を津波で亡くし、遺体を探し続けるおばあさんの気持ちが伝わってくる……例えば孫の友人と涙を流しながら思い出を語り合うシーンと比べて、カメラ目線で「ラジオをいつも聞いている」「音がないとさびしい」と語る姿は凡庸だ。まるで先に構成が決まっていて、映像を当てはめたような印象さえ受けた。彼女を通してドラマが生まれるのではなく、制作者の期待に彼女を乗せてしまったかのような。

 実際に監督の一人である梅村太郎監督は、報道後のインタビューで「分かりやすい被災者像」を描き出そうとしたことは認めている。僕はドキュメンタリー監督として、その演出に疑問を感じる。僕も事前に構成を決めるが、それは被写体には見せない。あるいは別の被写体やスタッフと共有し、一緒に演出を考える。カメラを回すのは期待する映像を「待つ」のではなく、今ここで起こった「新しい現実」を撮りたいからだ。僕がドキュメンタリーの醍醐味を感じるのはそんな瞬間だ。カメラが介入するからこそ起こりえた現実が撮れた時、僕は映画の歴史に触れられたことを毎度、感謝する。そんな時はめったにないのだが。

 本作はおばあさんのシーンを挙げるまでもなく、全体的に演出が過剰だ。音楽がシーンの意図を「説明」し、劇映画のようなカット割で、誰が何を語っているのかを強調する。話を聞く側のリアクションよりも、伝えたい側のアクションが優先されているのだ。

 僕はこの作品に、「いい映画」というよりも制作者の「いいこと(を描こうとする意思)」を強く感じた。彼らのやり方が、間違っているとは言いたくないが、ドキュメンタリー映画としてはうるさすぎる。映像が持つ力をもっと信じていいのではないか。それでも『ガレキとラジオ』を見てよかったと思う。ドキュメンタリーについて考えるいい機会になったからだ。

 ボランティアで参加した役所広司さんが「二度と上映されるべきではない」と怒りを口にするのは当然だと思う。しかし、それはナレーションを担当した俳優としての意見だ。裏切られた、と思ったのかもしれない。そして報道後には上映を中止した映画館がいくつかあった。ネットでも上映を禁止する意見も多かった。役所さんの思いに同調したんだと想像する。

 僕は本作を擁護するつもりはない。だが糾弾する気持もない。なぜなら『ガレキとラジオ』のような演出をする説明過多なドキュメンタリーは、テレビを付ければしょっちゅう目にするし、そうした映画もたくさん作られている。

 改めて書くが本作は「特別」ではない。

 これまでもこのような作品は作られて来たし、これからも作られるのは間違いない。制作者は「いいドキュメンタリー」よりも「いいこと」を優先したのではないか。つまり、観客の感動を誘うものを目指し、期待する「分かりやすい」被災者像を探し、作ってしまったのだ。だがそれは安易でつまらない。

 僕はおばあさんがラジオを聞けない環境にいたことも、制作者側がラジカセを用意し、CDを聞かせたことも、すべて作品の中で描けば良かったのに、と思う。

 ラジオにリクエストをするのも、結局は撮影側のアドバイスだったそうだが、どうせならそのシーンも見たかった。なぜなら撮影によっておばあさんが変化したこと(またはそんな程度の演出では人は変わらないこと)が描けるからだ。

 僕は、この3月28日~30日に開催された映画祭『うらやすドキュメンタリー映画祭』で『ガレキとラジオ』を見た。そして上映前のあいさつでは山国秀幸プロデューサーが、おばあさんが「映画に出たことを後悔していないこと」「ヤラセと報道されたことに対して抗議をしたこと」を語っていた。

 この2点は僕が目にしたニュースとは真逆の内容だ。

 おばあさんは「演技をしてしまったことに罪悪感を抱き、苦しんでいる」という記事を目にしたが、実際はどうなのだろうか? それでもプロデューサーによれば「今回が現状では最後の上映になる」そうだ。ヤラセ報道がきっかけで『ガレキとラジオ』は封印されようとしている。だが、何かモヤモヤしたものが残る。

 今も92%の人が「感動した!」という試写会でのアンケートが紹介されている。さらに、同アンケートでは、演出が「分かりやすい」からこそ試写会に集まった95%が「人に薦めたい!」と思ったという数字も掲載されている。僕は今回の件とこの数字に違和感を感じない。この数字が正しいのならば、僕は少数派ということになるが、『ガレキとラジオ』の件から学ぶべきことは多い。

 タブーが生まれる時は、境界を知るチャンスだから。

(文=松江哲明)

まつえ・てつあき
1977年、東京生まれのドキュメンタリー監督。99年に在日コリアンである自身の家族を撮った『あんにょんキムチ』でデビュー。作品に『童貞。をプロデュース』(07年)、『あんにょん由美香』(09年)、『フラッシュバックメモリーズ3D』(13年)など。『ライブテープ』は東京国際映画祭「日本映画・ある視点」部門作品賞を受賞。

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