――おニャン子クラブ、とんねるずを生み出し、美空ひばりの詞を手がけ、そして今はAKB48総合プロデューサーとして君臨する男・秋元康、55歳。70年代からテレビ業界の最前線にいた彼が憧れ続けたのは、映画の世界だった。彼が携わり製作した映画を振り返りながら、秋元康という人物と映画の関わりを探る。
AKBから手を引いたら、何をやるのか楽しみな御仁である。
秋元康という人物について、2014年の今、まず言うまでもなくAKB48をはじめとする48グループの総合プロデューサーとしての立場が最も知られているだろう。あるいは、本誌読者の世代的にいえば、とんねるずの人気を不動のものに押し上げた放送作家であり、おニャン子クラブのプロデューサーであり、そして美空ひばり「川の流れのように」を書いた作詞家という側面が強いかもしれない。つまるところ、現在のAKBにいたるまで流行歌を数多く生み、芸能とテレビの世界を華麗に歩んできた男だ。
そんな彼が、おそらくはずっと憧れ、しかし自らの手で成功をつかむことはできなかった世界がある。それは、映画だ。彼の過去のインタビューを追うと、ときおり映画に関する発言が飛び出してくる。
「僕は高校時代、シナリオライターに興味があったんですね。その頃は『祭りの準備』とか『青春の殺人者』とかATG系がバリバリで、脚本家の中島丈博さん、カッコいいなとか思ってました」(「プレイボーイ」91年2月19日号)
「僕は本当はヒットしない映画が好きなんです。好きな人だけわかるっていう」(「キネマ旬報」91年4月15日号)
その彼が、憧れの映画の世界に仕事として最初に名を連ねたのは、企画で参加した『君は僕をスキになる』(89年)というラブコメ作品だ。脚本・野島伸司、主題歌・挿入歌は山下達郎。とんねるずとおニャン子の両輪で回ってきた80年代が、87年のおニャン子解散により一息ついたであろう時期に取り組んだこのバブリーでトレンディな作品が、秋元が関わった最初の記念すべき映画となった。その後、91年に『![ai-ou]』というアウトロー青春モノに再び企画で関わったあと、彼はついに自らメガホンを取る。その記念すべき作品が、『グッバイ・ママ』(91年)だ。
松竹社長御曹司にして名物プロデューサーの奥山和由と組んだ同作は、都会に暮らす証券会社のキャリアウーマン(松坂慶子)が、元愛人(既婚者)の息子と一緒に暮らす羽目になって困惑しながら成長していく──という女性の物語である。当時秋元康は、監督初体験についてこう語っている。
「いや、大変でした。やっぱり僕はプロデューサーのほうが向いています。ほんと、途中で何度泣きだそうと思ったことか(笑)。毎朝7時集合とかね」(「プレイボーイ」91年2月19日号)
大変だったこととして早朝集合を挙げるあたりは茶目っ気なのだろうが、いきなりの「監督不向き」宣言。同時に、
「プロデューサー的に言うと、当てるための宣伝にはマスコミに取り上げられやすいネタが必要ですよね。これ、手段を問わないんです。(中略)だから『グッバイ・ママ』なら女の自立とか不倫とか、女性誌で特集を組んでいただけるように初めから作ってある。卑怯な手ですが(笑)」(同)
と、テレビの黄金期を渡り歩いてきた敏腕プロデューサーにしてトレンドセッターらしい一面を見せる。本作はもともと、奥山プロデューサーに「松坂慶子で何かできないか」と言われて出てきた企画だという。「僕という人間を監督にキャスティングしたことから奇をてらってるでしょ」(「キネ旬」91年4月15日号)と言うあたり、「人を驚かせたい」というのが彼のプロデュース業の根幹にある精神なのだろう。これは現在のAKBの運営にも相通じるものがある。
『グッバイ・ママ』公開に際してのインタビューで「プロデューサーとしての自分が出てきてしまって、映画監督というアーティストにはなれない」と繰り返し語る秋元は、「また監督をやる?」という質問に対し「やりませんかっていう機会はよくあるんですが、いいですって断っちゃう。自分の中で何か変わらないとダメだと思うから。例えば今回のが当たるとか、コケるとか、または時間が経つとかすればね」(同)と述べるが、すぐ翌年、全編ニューヨークロケの『マンハッタン・キス』で脚本・監督を手がけることになる。
同作は、ニューヨークを舞台に、柄本明演じる妻子持ちの男を2人の姉妹(いしだあゆみ&室井滋)が共に愛してしまうという恋の物語。この製作時期にあたる88~89年頃、秋元自身はニューヨークと東京を行き来する生活を送っている。高井麻巳子との結婚後のことだ。おそらくはそうした生活の中から着想を得て、『グッバイ・ママ』から間もない時期に再び監督業に身を投じたのであろう。この時も彼は「ボクはアーティストじゃないからね。ボクの映画というのは、“俺はこれをみんなに伝えたいんだ!”という映画じゃない。(中略)だから、もしこれがホントにお前の作りたいモノか?って聞かれたら、違うだろうね」「ボクは本質的に監督じゃないんだよね。プロデューサーであり、ヒット請負人」(「SPA!」92年6月17日号)と言う。映画監督を志し自主映画を撮り続けているような青年が聞いたら憤死しそうな発言だが、こうも強調されると逆に、映画監督になりきれない自分を、かつて映画少年だった秋元自身に納得させようと言い聞かせているようにも見えてくるというものだ。もちろん、本心からの言葉ではあろうが……。
ところでニューヨークといえば、 『グッバイ・ママ』も物語の中で、主人公がニューヨークに旅立つシーンがある。この作品と『マンハッタン・キス』、そしてもう一作をもって「秋元康ニューヨーク3部作」と呼ぶ言い方がある。そのもう一作とは、『Homeless』(91年)だ。同作は秋元監督作品でなく、弟子であり遊び仲間であった堤幸彦監督作。そしてオノ・ヨーコを主演に迎え、全編ナレーションのみで、ニューヨークの路上に暮らす人々の生活のリアルを描こうという意欲作だった。この作品に秋元は、企画・脚本として関わっている。彼の関わった映画の中でも飛びぬけて異色なこの作品から約20年後、堤は建築冒険家・坂口恭平の『TOKYO 0円ハウス』『隅田川のエジソン』をベースに、日本の都市に生きるホームレスの姿を描く(『MY HOUSE』2012年)のだが、それはまた別の話。