我々はいずれ死ぬ、そのことをわかっていながらどうして互いを大切にできないのか

SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。

『あなたはなぜ「友だち」が必要なのか』(原書房)

 本当のことをいえば、友情は語るべきものではない。

「友だちとは何か」「友情はどうあるべきなのか」といった類のお話は、あえて論を立てるための枠組みとしては有効でも、日常的な話題としては無理がある。変だ。

 というよりも、「友人」や「友情」といった事柄について、抽象名詞で考えること自体が不自然であるのかもしれない。

 このあたりの事情は恋愛の場合に似ていなくもない。

「恋愛というのはね」

「人を好きになることって……」

 などと、誰かが大真面目な顔で話し始めた場合、彼または彼女は、世にいうところの「恋愛論」を語っているのではない。先方は、特定個別の誰かさんにかかわる個人的な体験をくどくど語り尽くそうと考えている。有意義な午後の時間を台無しにしたくないのであれば、話題を変えて席を立ったほうが良い。なぜなら、夫婦喧嘩が犬も食わない食材である以上に、「恋バナ」は豚も食わない残飯だからだ。他人の「恋バナ」に耳を傾けるのは、自分の「恋バナ」を語りたいと考えている人間だけだ。そう。酔っぱらいと同じだ。

 友情は、恋愛と比べれば、ずっとテーブルに乗せられにくい話題だ。というのも、現在進行形の友情は、多くの場合、無意識化に沈潜していて、分析の対象として好適なものではないからだ。

 というよりも、友情は、そもそも、当事者が、明確な形で意識することの少ない感情だ。

 恋愛中の男女は、なるべく頻繁に会いたいと願っている。逆にいえば、ある程度の期間、たとえば半月なり半年なりの間、顔を見られない事態が生じると、2人の関係は危機に陥る。というのも、恋愛は、双方が共に過ごす体験を前提として育まれる感情であって、歌の文句にある、「会えない時間が愛育てるのさ」というのは、ストーカーのメンタリティに過ぎないからだ。普通の男女の恋愛は、「去る者は日々に疎し」という、昔ながらのことわざに沿って消長する。会わない者同士は、時間の経過と共に疎遠になり、ひとたび隔意を抱いた2人は、逢瀬を楽しまなくなる。

 その点、友情は、必ずしも定期的な面会を要しない。

 むしろ、親しい間柄であればあるほど、実際に顔を会わせる機会に依存する度合いは低くなる。早い話、10年会っていなくても、親友は親友だ。

 そういう意味では、友情は、相互関係であるよりは、個人的な自尊感情に近い。親友がしっかりと心の中に住んでいれば、頻繁に会う必要はない。顔を思い浮かべる必要さえない。ただ、この世界のどこかに、自分のことをわかってくれる人間がいると思うだけで、安心立命を得ることができる。うむ。もしかしてこれは、信仰に近いのかもしれない。

 そんなわけなので、友情という言葉なり概念が、真に迫った形で私たちの心の中に立ち現れるのは、実は、相手が死んだ時だったりする。

 というよりも、我々は、相手の死に直面して、はじめて自分がかけがえのない友人を亡くしたことに気づくものなのだ。

 個人的な話をせねばならない。

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