伊勢神宮、明治神宮と皇室 その"神格化"はいかになされたか?

――今年第62回式年遷宮を迎えた伊勢神宮、60年ぶりの「平成の大遷宮」を無事終えた出雲大社、そして、あと10年もせずに創建100年を迎える明治神宮。こうした神社は昨今のスピリチュアル・ブームを受け若い女性などに人気の観光スポットとなっているが、これらの神社がまとっている「神々しさ」は、いつ、どのように始まったのか? その歴史を追う!

(写真/江森康之)

 伊勢神宮と出雲大社という日本の神道を代表する2つの神社が、それぞれ20年、60年ごとに建物を建て替えご神体を遷す「式年遷宮」と呼ばれる儀式が同一年内に行われるという巡り合わせに、多くの人々が沸いた2013年。特に、12年には「せんぐう館」を新設、13年8月には内宮参集殿で藤井フミヤがコンサートを行い遷宮イメージソング「鎮守の里」を熱唱するなど、これまでにない規模でこの式年遷宮の広報活動を繰り広げてきた伊勢神宮の参拝者数は激増。若い女性や子ども連れの姿も多く見られるようになり、その年間参拝者数は史上最高となる1000万人を超える勢いであるという。遷宮という一大イベントを機に、いま再び大きな注目を集めるようになった神社神道。「日本人の『こころ』のふるさとが変わることなくここにあります」とは伊勢神宮の公式HPにある言葉だが、天皇家とのゆかりも含めた“正統性”、あるいは不浄の場所としての“神聖性”――我々が漠然と抱いているこうしたイメージは、はたして“悠久の昔”より、変わらずそこにあり続けたのだろうか?

 三重県伊勢市にある伊勢神宮は、正式名称は「伊勢」のない「神宮」、8万以上ともいわれる全国各地の神社を統括する宗教法人・神社本庁の「本宗(ほんそう)」である(神社本庁の事務所自体の所在は東京都渋谷区内、明治神宮の隣)。物理的には大きく「内宮(ないくう)」と「外宮(げくう)」に分かれ、その総面積は5500ヘクタール、伊勢市のおよそ3分の1を占めるという。よく誤解されるが、この内宮と外宮は隣り合ってはおらず5キロほど離れており、歩いて行くにはちとつらい。それぞれの宮域内には中心となる正殿以外にもいくつかの別宮が点在し、観光写真でよく見かけるほうの正殿や宇治橋が存在するのは内宮のほうで、観光地的な“派手さ”は外宮にはない(正式な参拝順としては、外宮→内宮が正しい)。

『古事記』や『日本書紀』によると、伊勢神宮の創建は紀元前にさかのぼるというが、歴史学的には天皇の実在が疑われる時代の話であり、伝説にすぎない。それが、一応今日と同じく、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮)、豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮(とようけだいじんぐう)(外宮)という2つの正殿からなる形となり、皇室の氏神を祀る神社としての地位を確立したのは7世紀後半の天武天皇の頃とされている。そして、その後を継いだ持統天皇の代より20年に一度の式年遷宮がスタートする。しかし、やがて政治の実権が公家や武士に移っていくなか、戦国時代には伊勢神宮も経済的に困窮し、内宮では1462年から123年、外宮では1434年から129年もの間、遷宮は中断していたという。その後、伊勢の慶光院という寺の尼僧の尽力のもと、織田信長、その遺志を継いだ豊臣秀吉らの協力を得て、1585年に遷宮が復活。以降、再び20年ごとに遷宮が行われるようになった。

 一方、『古事記』『日本書紀』、そして『出雲国風土記』のなかに登場するも、伊勢以上にその起源が謎に包まれている出雲大社は、1872年に改称されるまでは杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれ、全国というよりも、むしろ地域で勢力を持った神仏習合色の強い神社であったという。いまでこそ大国主大神を祀った神社として知られる出雲だが、中世から近世にかけては素戔男尊(すさのおのみこと)を祭神とするなど、そのあり方は時代と共に変遷している(その後、『記紀』の記述に従って、再び大国主大神に改められた)。中世には約48メートルの高さを持つ高層建築だったという出雲の本殿が、現在の形になったのは17世紀初頭。以降、およそ60年を目安として、大規模な修繕が行われるようになったという。ここで注意したいのは、社殿自体を建て替える伊勢に対して、出雲の遷宮は大屋根の葺き替えや修理を行うだけで、本殿そのものを建て替えるわけではないということだ。ちなみに、旧暦10月の神在月には、全国から八百万の神が集まり、縁結びの相談をするという伝説を持つ出雲大社は、江戸期より“縁結び”の神としても親しまれ、今日では結婚式事業にも積極的に参入している。

伊勢神宮の“意味”は明治維新で激変する

 こうして並べてみると、天皇家との関わりなど、出雲以上に厳格厳粛なイメージのある伊勢神宮(実際、伊勢神宮は結婚式事業には参入していない)。しかし、江戸時代に庶民の人気を博した滑稽本『東海道中膝栗毛』などで描かれる"お伊勢さん"のイメージは、それとは少々異なっているようにも思える。

 戦国の世が終わり社会が安定化してくるなか、「御師(おんし)」と呼ばれる中下級の宗教者たちが全国各地に飛び、庶民に対して伊勢参宮を勧奨して回ったという江戸時代。当時は、皇祖神である天照大御神を祀った内宮よりも、五穀豊穣の神である豊受大御神を祀った外宮のほうが、むしろ庶民の間では人気が高かったようだ。さらに、伊勢神宮の周辺には御師の営む宿坊が立ち並び、内宮と外宮の中間にあたる古市地区には男性客を当て込んだ遊郭が建てられ、国内でも有数の色街に発展していたという。建築史や建築評論を専門としつつ、社会文化論などにも詳しい五十嵐太郎・東北大学大学院教授は、こうした点について次のように解説する。

「伊勢神宮は、少なくとも江戸時代には大衆的なツーリズムの場所であって、伊勢神宮の周辺にはいろんな土産物屋があったり遊ぶ場所があったりする、一大歓楽街だったわけです。それが変わったのが明治時代。そうしたものをすべて取り払って、今日我々が一般的に持っているような伊勢神宮のイメージ――清らかで美しい場所であるというイメージに作り変えていった。それまで、神仏習合の状態で受け入れられていたのを、そういった『非常にピュアなもの』であるというふうに変えたのが、近代におけるいちばん大きな変化といえるでしょう」(五十嵐氏)

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