宇多田ヒカルが”ブーム”を終わらせた!? ディーヴァの進化と退化の20年史

――日本の女性歌手に対して“ディーヴァ”という言葉が使われるようになったのが、90年代半ばあたり。現在までにそのワードは一般的に浸透したが、歌姫のJ-POP界における立ち位置や社会に対する役割は、どのように変化してきたのか? 鹿野淳氏、水無田気流氏、磯部涼氏の三者が分析!

(絵/河合 寛)

■アメリカの流行をパクる!?
黒人音楽系
90年代後半、同時代のUSヒップホップ/R&Bを導入したトラックの上でソウルフルに歌い上げたUA、CHARA、MISIA、birdなど。宇多田ヒカルもデビュー時はアリーヤの日本版のようだったが、その後は特殊路線を進んで迷走?


(絵/河合 寛)

■輝かしい過去に未練はナシ!
脱90年代系
2000年代以降に新たな支持層を獲得した、90年代デビュー組。小室ファミリーから抜け出した安室奈美恵や、JUDY AND MARYという偉大な過去を払拭したYUKIなどは、今も人気が衰えない。本誌がしばしばネタにしてきた椎名林檎も、ここに入るか?


(絵/河合 寛)

■会いたすぎて震える歌詞!
ギャル演歌系
2000年前後にギャルの教祖となった浜崎あゆみと、西野カナや加藤ミリヤといったその劣化版。歌詞はベタな感情しか綴られていないのが特徴である。西野カナのパンチライン「会いたくて会いたくて震える」は一時期、ネット上で笑いのネタにされました。


(絵/河合 寛)

■YUIフォロワーが大繁殖!
SSW系
SSWはシンガーソングライターと読む。メンヘラに勇気を与える絢香や、合唱コンクールみたいなアンジェラ・アキなど、さまざまなタイプが存在する。フォークギター片手に「CHE.R.RY」を大ヒットさせたYUIは、miwaをはじめとするフォロワーを量産。


 UAの『11』(96年)が90万枚、CHARAの『Junior Sweet』(97年)が100万枚、MISIAの『Mother Father Brother Sister』(98年)が300万枚売れたあの頃。同時代のUSヒップホップ/R&Bを取り込んだトラックの上で歌う彼女らは、“ディーヴァ(歌姫)”と呼ばれはじめた。

 90年代半ばから起きたそのディーヴァ・ブームは、宇多田ヒカルの登場で頂点に。彼女の『First Love』(99年)は国内で860万枚以上売れた。が、今世紀に入りブームは沈静化し、ディーヴァという言葉自体が拡大解釈され、文化圏の異なる種々の女性歌手がJ-POP界で併存。その一類型を2000年前後に確立したのが浜崎あゆみだ。彼女の歌詞はギャルに訴求したが、現在媒体露出の多い加藤ミリヤや西野カナなどは、同じくギャル層に支持されている。

 一方、90年代のポップ・アイコンになりながら00年代以降に新たなファンを得たのが、JUDY AND MARY解散後のYUKIや、小室ファミリーを脱した安室奈美恵。2人の人気は今も上昇しているようにさえ見える。

 近年ではJUJUやAIといった歌手を音楽番組で目にするが、あのディーヴァ・ブームから約20年、歌姫の音楽性や歌詞や市場はどう変容したのか? 「ROCKIN’ON JAPAN」(ロッキング・オン)元編集長で「MUSICA」(FACT)創刊者の鹿野淳氏、詩人/社会学者でありながらJ-POPの歌詞分析もしてきた水無田気流氏、日本のアンダーグラウンドなヒップホップやクラブ・ミュージックに詳しい磯部涼氏の三者に考察してもらおう。

時代とズレていった宇多田ヒカルの特殊性

鹿野(以下、鹿) ディーヴァというと僕はセクシーでアーティスティックなイメージですが、CHARAは91年のデビュー時、その意味のディーヴァ感はなかった。エピックソニーは尖った女の子としてプロモーションしていましたが、当時の奇抜な格好は今のきゃりーぱみゅぱみゅに近い。95年のデビュー時からディーヴァ感があったのがUA。キャバレーのシンガー出身というストーリーだったり、デビュー・シングルが藤原ヒロシのプロデュースだったり、アーティスティックな面があった。当時、彼女に取材したときに、テクノDJのジェフ・ミルズのオールナイト・イベントに一緒に行きました。そういうアンダーグラウンドな音楽も、自分の生活圏でかじっていたんです。あの頃は渋谷系もあり、ラヴ・タンバリンズのeliなどが登場し、初めて邦楽が洋楽と同時代性を持った。そんな時期に女性歌手にアーティスティックなイメージが生じ、ディーヴァという大人っぽい言葉が使われだしたのは、自然な流れです。

水無田(以下、) 文学では80年代頃から女性が主体的にエロスを語ることが盛んに行われだしました。しかし90年代になると、現代詩や小説の世界でそれは廃れ、特に現代詩は詩語の純粋性を重視し、結果ポップなものから遊離したのですが、音楽の世界では自らの言葉と肉体で表現するディーヴァが登場したのが興味深いです。

鹿 ただ、あの頃のディーヴァはポップなものではなく、クラブでも聴けたりする音楽として僕は受け取っていました。そんなディーヴァ像をプロデューサーとして確立したのが大沢伸一。CHARAをディーヴァにしたのも、UAやbirdをヒットさせたのも、クラブ/ブラック・ミュージックを下敷きに音楽を作った彼の功績。

磯部(以下、) 90年代中頃、日本のアンダーグラウンドなヒップホップがメジャーからリリースされ、それがわりと売れた。その女の子版として、同時代のUSのR&Bを取り入れたプロダクションでディーヴァがデビューした側面も。例えばDJ WATARAIがリミックス、MUROがラップでフィーチャーされたMISIAのアナログが当時、レコード村と呼ばれた渋谷の宇田川町で何千枚も売れた。日本でいうディーヴァって要は、日本人女性の身体性と心情を黒人音楽を通していかに表現するかということだと思います。そういう試み自体は昔からあり、あの頃にようやくうまくいき始めたのかなと。そして90年代終わりに早くもディーヴァ・ブームのクライマックスが訪れた。それが宇多田ヒカルの登場。彼女はUSのR&B歌手アリーヤの日本版みたいなプロダクションでデビューしましたが、日本人の10代の女子の心情を見事に表現していた。

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