飲み友だちは友だちではない 人の話も聞かない狂ったキャッチボール

SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。

『浦島太郎』(講談社)

 酒を飲む人間には仲間がいる。

 少なくとも、ハタから見るとそんなふうに見える。

 酒飲みは連帯する。激しく同意し、些細なことで笑い、たやすく団結し、またたく間に友情を抱き合う。それもそのはず、酒は羞恥を打ち砕くハンマーであり、警戒心を眠らせる魔法の杖だからだ。

 今回は、飲み友だちについて考えてみたい。

 先に結論を述べておく。私は、飲み仲間を友だちだとは考えていない。というのも、酒を飲んでいる人間は、別世界の住人であり、酒の中で築いた友情は、竜宮城における交友と同じく、現実のものではないからだ。玉手箱を開けてみればわかる。煙が消えた後には何も残らない。鏡を見ると、不機嫌な年寄りがこっちを見ている。友だちではない。素面に戻ったオレだ。

 以前、当欄でも少し触れたことがあるかもしれないが、40代に入る手前までの10年間ほど、私はアルコール依存症の患者だった。その間、つまり、一番ひどい酔っ払いだった10年ほどの間、私は通常の意味でいうところの友だちとは、かなり疎遠になっていた。さもありなん、私は、酔っていない時は無気力な気鬱症患者で、酔っている時は支離滅裂な自我狂だった。そんな人間と交友を深めたいと思う人間が、そうそういるはずもないではないか。

 が、酒場には仲間がいた。酒を飲む人間は、孤高を自認していながら、その実、仲間を求めている。だからこそ、我々は酒場に繰り出す。そして、あるタイプの酒場に常駐している自分によく似た人間と、その場限りの友情を温め合うのである。

「その場限り」といっても、一定のつながりはある。同じ酒場でいつも顔を合わせる者同士の間には、ある連帯意識が生じる。だから、気が向けば同じテーブルを囲んで飲むし、話が合うタイプの人間とは、連れだって別の酒場に繰り出すこともある。

「どうです、これから蒲田あたりに遠征ってのは?」

 私にもそういう仲間がいた。

 我々は、蒲田や、大森や、下谷あたりの酒場で正体不明になり、時には新宿界隈で行方不明になった。

 ところが、酒をやめてみると、酒場の友だちとはきれいに縁が切れる。当然だ。夢からさめた浦島太郎が、どうして、陸に上がってなお、鯛やヒラメと付き合わねばならないというのだ?

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