40億円超の負債を抱えたNIGO…裏原宿カリスマブランド“終焉物語”

──本誌でも昔からたびたび取り上げてきた裏原宿ファッション。しかし昨年から今年にかけて、いよいよ終焉を迎えたとの話が聞こえてくる。そこで、裏原のオモテとウラの両面から、現況を考察した。

(絵/河合寛)

 90年代初頭に原宿の片隅で産声を上げ、あっという間に若者中心の巨大なファッションビジネスとなった「裏原宿(裏原)系」という文化。しかし、00年代中盤に入るとその勢いは徐々に失速し、数多くのブランドがひっそりと姿を消していった。11年には裏原系最大のブランド、ア・ベイシング・エイプが香港を中心にセレクトショップを運営するアパレル企業ITに売却された。10年8月末の段階で、エイプを展開する株式会社ノーウェアでは約40億円の負債があったと公表されている。13年2月には後発組だったブランド、スワッガー(デザイナーは、日本のヒップホップグループ・シャカゾンビのオオスミタケシ)を運営する会社が負債5億4700万円を抱え自己破産を申請。こういった情勢を受けて、「裏原系はもう終わった」「今はファストファッションの時代」などとメディアでは騒がれているが、本当に裏原系は“終わった”のだろうか。

 後に「裏原系」と呼ばれる文化が始まったのは93年。ア・ベイシング・エイプのNIGOとアンダーカバーの高橋盾が共同でオープンした店、ノーウェアが裏原系ショップ群の先駆けだと言われている。この当時2人は22歳だった。この2人が藤原ヒロシから引き継いだ雑誌「宝島」(宝島社)の連載ページ「LAST ORGY 2」でステューシーなどの海外ブランドに混ぜて自分たちのブランドを紹介すると人気に火がつき始めた。そこをきっかけに、95年にはネイバーフッド、バウンティハンター、ヘクティクなどのショップやブランドが次々に展開。これらのブランドは、賑わいのあった原宿駅前ではなく、当時、人通りの少なかった明治通りの東側にある裏路地に店を構えたため、「裏原系」と呼ばれて徐々に浸透していった。

「原宿にたむろする単なる若者たちがファッションデザイナーになれたのは、低価格化したMacの普及によるところが大きいと思います。それまでは大手アパレルメーカーでしかできなかったデザインが、Macとソフトさえあれば一般人でも可能になったんです。どの裏原ブランドも手始めに参入の簡単なTシャツのデザインから始め、資金を蓄えてほかのジャンルの商品展開を始めていったというわけです」(男性ファッション誌編集者・M氏)

 裏原系ブランドはTシャツ一枚で6000~1万円以上と、既存のブランドの商品に比べて高額で、なおかつ、数をあまり作らなかった。これは自主制作に近い生産体制であったことも理由だろう。

「ただし、その中には低価格で商品を販売した後発の裏原系ブランドに圧力をかけて、裏原系ブランドの高値を維持するなどの動きもあったようです。さらに各ブランドはコラボアイテムやダブルネーム(商品に2つのブランド名を併記して売り出す手法)といった限定商品も乱発しました。ファッション誌には数多く掲載されたものの、稀少性の高さゆえ若者の間で売買価格が高騰。店の前には開店前から長蛇の列ができ、商品が発売された瞬間に転売され、瞬く間に値段が釣り上がって行く現象が起こりました」(前出・M氏)

 レアな商品を手に入れるためにホームレスを雇って並ばせる転売業者が登場したり、ナナ・インターナショナルやラグタグなど裏原系のブランド古着を扱うショップも登場する中、最初のピークを迎えたのは97年。木村拓哉がア・ベイシング・エイプの迷彩柄スノボジャケットをオロナミンCのCMで着用し(スタイリストは中山美穂の元カレとして有名な野口強)、人気が爆発して一般に広く知られるようになったのだ。97~98年には第二世代とも呼ぶべき後発ブランドのリボルバー、スタイリストの熊谷隆志が手がけるGDCなどがスタートした。どのブランドも商品を出せば完売する状態が続き、裏原系のデザイナーたちは手にした金を趣味や自由なライフスタイルに費やして雑誌で盛んに紹介。それがフィギュアや自転車などの新しい流行を産む、という図式が形成されていった。

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