──『お願い! ランキング』をはじめとしたテレビ番組にひっぱりだこの、“イケメン料理人”川越達也シェフ。爽やかなスマイルが奥様方に人気なれど、ネットやその他ではいじられ放題、突込みどころ満載にも見える、今まさに旬すぎる料理人だ。代官山でオーナーシェフを務める彼が、わざわざ叩かれながらもメディアに出続ける理由・その旨味とはなんなのか? 本人に直撃した!
(写真/梅川良満)
川越 「サイゾー」さん、たまにネットで僕の悪口書いてませんか……?
――そんなことはない……と思いますが、本日はよろしくお願いいたします。今はお店「タツヤ・カワゴエ」はお休み中ということですが【4月上旬時点。5月1日より営業再開】、ブログを拝見すると全国を飛び回ってますね。地方の食材の開拓などを考えているのですか?
川越 40代の戦略のひとつとして取り組んでいます。川越達也ならではのもの、今の時代に提案できるものとは何かを考えながら食材を探している感じですね。例えば、乾燥シイタケとか切干大根とか雑穀とか。今は全国に行って生産者の方たちと会っているところです。よくテレビとかで料理人が畑とかに行って、偉そうな顔で葉っぱをちぎってたりするじゃないですか(笑)。
――『情熱大陸』(TBS)とか『ガイアの夜明け』(テレビ東京)で見たりしますね。
川越 ね? これみよがしにやってるでしょ?(笑) 僕は宮崎で泥臭い生活をしてきたので、子どもの頃からああいう畑の中で育ってきたんですよ。子どもの頃に体感した食材と、30年経った今、どうやって向かい合っていけるか考えているところですね。
――その宮崎で過ごした幼少の頃から、川越さんは料理人を志していたんですか?
川越 「目指していた」というよりは、「できることを仕事にした」という言い方が正しいかな。子どもの頃はプロ野球選手になりたかったんですよ。でも、体が小さくて華奢だったので、中学校に上がる前ぐらいに限界がわかってしまった。一方で、子どもの頃から手に職をつけようという意識がありました。家は貧乏だったし、自分は勉強ができるわけでもない。身体も小さいし、ほかに秀でたこともなかった。でも、料理のことは、何をどうすればおいしくなるのか、学ぶ前からなんとなくわかるという能力があった。ありがたい“オプション”を身に付けていたんですね。
――“手に職”を意識されていたということは、同時にお金を意識していた?
川越 やっぱり男の子だから、一発当てるために早く自分の武器を見つけて磨かなければいけないという思いがありました。
――それはいつぐらいから考えていたことなんですか?
川越 小学校に上がるぐらいかな。仮面ライダーやウルトラマンになれないことはわかっていたけど、いざというときにそういうヒーローになっていたいという気持ちがあったんです。しっかりした強い人間になって、困った人を助けてあげなくちゃ、と。親兄弟も含めて、助けを乞うている自分の身の周りの人たちを助けてあげられる大人になりたかった。そのための武器が、料理の仕事だったんです。
――以前、別のインタビューで「早くお金を稼いでお袋を救い出したかった」とおっしゃっていましたね。
川越 あぁ、はい。中学・高校時代は家がグチャグチャだったんですよ。親父との確執があったり、嫁姑の問題があったり。……僕、小学校の頃、お袋がばあちゃんの首を絞めているシーンを見ているんですよ(笑)。
――うわぁ。
川越 もう半狂乱でしたね。ばあちゃんも元気だから応戦するんです。僕は子どもですから母親大好きですし、守ってあげたいという気持ちがありました。でも、その頃の僕は何もできなくてもどかしいわけですよ。だから、自分自身が働ける環境が整ってきた段階で、「よし! あとは仕事頑張るぞ!」と思ったんです。お袋のことを大事にするのはもちろん、いざとなったら親父のことだって面倒見なきゃいけない。川越家で何かあったら、俺が助けてあげられる人間になっていよう、と考えてましたよ。
――家族を助けるウルトラマンになろうと。
川越 もうひとつ、親戚に障害者が何人かいたんです。特に幼い頃から兄弟のように育ってきた従兄弟が脳性まひだった。俺はこんなに自由に走り回れるのに、彼は歩くことも喋ることもできない。五体満足の俺は彼の分までもっと頑張らなきゃ、しっかり生きていかなきゃ、と思うようになりましたね。だから、自分が大人になったとき、誰が困っていたら「シュワッ!」と手を差し伸べられるような人間になっていよう、と。それが手に職をつけるということだったのかもしれません。