――上京して数十年、すっかり大阪人としての魂から乖離してしまった町田康が、大阪のソウルフードと向き合い、魂の回復を図る!
photo Machida Ko
散髪は最悪だった。というのは、散髪屋のおっさんが人の話をまったく聞かぬ男で、この男には、パンチパーマを当て、僕は普通のこざっぱりした髪型にして貰いたい、と言っているのにもかかわらず、私にパンチパーマを当て、友人をこざっぱりした髪型にした。お陰で行く先々で人に笑われ、侮られている。もう二度と、友達の散髪に付き合うのはやめようと思う。とりあえず紙に、パーマネントはやめませう、と書いて自宅の前に掲示した。
といってさて、自分でお好み焼きを焼けと言われて関東の群れのものが恐慌を来した話をしたのだったね。話を進めましょう。
そう。関東の群れの者は恐慌を来したのであった。というのは、しかし無理のない話で、彼らはそれまでそうした形式、様式を経験したことがなく、いわば言葉の通じない外国でまごまごしている観光客のようなものであった。
それでも自分の国の風儀・風俗がグローバルスタンダードと思ってそれ以外の者を未開人として見下していればそうしてまごつくこともないのだろうが、それまで地方を回って演奏をしてきて、さんざんせんど地方の客に蹴られ、また、興行成績のかたも芳しくなく、いわゆる、旅先の御難、のただ中にあって、すっかり気を弱らせていた彼らなので、自らお好み焼きを焼け、と言われ、
「そんな難しいことを言われてもできない。よしんば仮にやったとしても、やりかたが変だと嗤われ、嘲られ、やはり関東の奴らはものを知らぬな。そんなことだから演奏もまずいのだ。と批判されるに決まっている。そんなことになったら俺たちは自分を恥じて恥じて、もうこれ以上、人間でいることができない、ってことになってテクマクマヤコンテクマクマヤコン豚さんになーれ、といって豚に変身して給食の残飯を貪り食って生きることになりましょう。そんな悲しい思いはしたくない。でもあなた方は私どもに自らお好み焼きを焼けと仰るのですね。ああ、悲しいことだ。辛いことだ。旅になんか出なければよかった」
と内心に思って恐慌を来したのだった。
ならば、現地コーディネーターというか、事情通というか、そういう立場にある私が指導するなり、手ずから焼いてやるなりすべきなのであるが、ところがそれができなかった。
なぜできなかったかというと、私が通常では考えられないくらいの不器用者であったからである。
どれくらい不器用だったかというと、例えば、釘一本満足に打つことができなかった。どんなに慎重を期しても、全身全霊でこれに取り組んでも、私が打つと釘は途中で斜めになり、折れ曲がり、垂直に入らなかった。その挙げ句に、釘ではなく指を打ち、粉砕骨折して病院に駆け込むこともしばしばであった。
そんな私がもし包丁など持ったらどうなっただろうか。
指なんてなものはほとんどなくなっていただろう。
という訳で私は調味・調理と言ったようなことは一切できなかったし、そもそもそんなことをしようなんて大それたことは考えたことがなかった。
そんな私も三十年後のいまは少しばかり包丁が持てるようになった。棚なども吊れるようになった。かつての自分を思うとき、私はつくづく思う。人間というのは成長するものなのだなあ、と。そして、人間というのは無限の可能性を秘めているのだなあ、とも。