『アラジン』はイスラム的にアウト? 映画で触れるな!? 三大宗教のタブー

──昨年、ネット上で公開された『イノセンス・オブ・ムスリムズ』というアメリカの自主制作映画が、「預言者を侮辱している」とイスラム圏で大きな反感を買った。映画表現において、キリスト教、イスラム教、仏教という三大宗教の何をどう描いたら、こうした反応が起きてしまうのか? その基準線を探ってみたい。

『アラジン』(偕成社)

「イエスに子どもがいた!?」「ユダは裏切り者ではない」聖書の解釈に違いがあるにせよ、キリスト教社会におけるこうしたタブーは、多くの小説やノンフィクションで扱われ、さらに映画化され、物議を醸してきた。その代表的なものが、同名のベストセラー小説を映画化した『ダ・ヴィンチ・コード』【1】。カトリック教会はイエス・キリストを冒涜したとしてボイコットを呼びかける騒ぎに発展した。また、イエスの十字架刑を描いた89年の『最後の誘惑』も、磔から脱出しマリアとの間に子をもうけ、老齢まで生きるというイエスの夢想が描かれる。当然、保守派のクリスチャンからは叩かれたが、イエスに子どもがいたことのみならず「ユダの位置づけ」にも問題があったと、キリスト教思想に詳しい同志社大学神学部の小原克博教授は指摘する。

「一般的にユダは裏切り者とされていますが、『最後の誘惑』【2】のユダは、むしろ神の計画を成就する人物。原作となったニコス・カザンザキスによる重厚な同名小説では、このあたりのストーリー展開が非常に綿密に描かれ、本当はそうだったのかもと思わされるほど。これらは昔から人々の関心をくすぐってきた、息の長い隠れたテーマなんですよ」(小原氏)

 あるいは、受難の道程を明らかにしたもので最も苛烈なのが、04年の『パッション』【3】。イエスの凄惨な拷問描写を映画館で目にした観客が心臓発作で亡くなった話は有名だが、イエスの母語とされるアラム語と、一部ラテン語で進行する同作に対し、福音派という保守層の一部は真実に近いと感嘆。しかし、欧米のメディアやキリスト教団体は、イエスを迫害するユダヤ人の描き方が「反ユダヤ主義を助長する」と糾弾した。

「同じ十字架に至るプロセスを描いた映画でも、作品により内容が違います。聖書には福音書が4つありますが、それぞれ異なるストーリーを含んでいます。ひとつのストーリーに仕立てるためには、作り手の意図がかなり入り込んでしまうため、何が真実かをめぐって意見の対立が生まれるのは当然ともいえます」(同)

 一方、キリスト教で神の敵対者である悪魔は、娯楽としての映画と相性がいい題材のようだ。68年の『ローズマリーの赤ちゃん』は主人公が悪魔の子を産む話で、「神は死んだ」と訴える秘密結社が登場。また、ホラー映画の古典『エクソシスト』【4】(74年)は悪魔に憑かれた登場人物のグロテスクな相貌と、それに対峙する儀式のスペクタクルが観る者の心を震撼。それらの作品がキリスト教団体から批判されたのは、悪魔自体がキリスト教の禁忌だからではなく、つまるところ「悪魔の存在にすら救いを求めてしまう人間の心」(同)の闇に迫ったからかもしれない。

 カトリックのタブーに迫った映画といえば、96年公開の『司祭』【5】。同性愛の禁止、告解の守秘義務という絶対原則を正面から描いて激しい議論を引き起こし、ついにはローマ法王庁が抗議声明まで発表した。

「しかし、その後の01年以降、米国でカトリック聖職者が教会に通う男児に性的虐待をしていたことが明らかになると、他の国々でも同様の事例が次々に発覚し、以来、カトリック教会は多くの訴訟費用と労力をつぎ込まざるを得ない騒ぎに。先だってオバマ大統領も就任演説で『同性愛の問題が解決しなければ、私たちの旅は完成しない』と語りましたが、同性愛は今、カトリックやプロテスタントの教会を巻き込んで、米国を二分する大問題。そういう意味で、『司祭』は先見の明があったともいえます」(同)

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