ヒゲの殿下は崇教真光教徒だった!? "皇族"がハマる"信仰"、禁断の考察

──神道的行事を司り、戦中は「国家神道」と呼ばれる宗教体系の頂点に祀り上げられた天皇および皇室という系譜。だが戦後は、新興宗教にキリスト教はじめ、さまざまな宗教と関わりを持つ皇族関係者が出てきた。これまで正面から語られる機会の少なかった皇室と宗教の歪な関係を、宗教社会学者がひもといてゆく。

『天皇のロザリオ』(成甲書房)

 白民党・石原伸晃はじめ、政界や芸能界の著名人も信仰しているとされる新宗教・崇教真光の教会史に、堂々と登場している皇族がいる。アルコール依存症だったことを告白するなど、自由奔放な言動で知られた“髭の殿下”こと、故・三笠宮寛仁親王殿下だ。崇教真光は、“霊主心従体属”の法則に基づき、手かざし(お浄め)をすることで病・貧・争・災の不幸現象が解消し、健・和・富の人生へと転換すると教える宗教団体だ。あらゆる不幸現象は霊的原因に依ると考えられ、各地の道場では真光流の手かざしによってそうした霊のクリーニングが日々行われ、人類救済の活動を行っているとされている。

 寛仁親王殿下は、2009年に刊行された『輝ける崇教真光五〇年史』(崇教真光編/L・H陽光出版)に祝辞を寄せている。いささか長いが、引用してみよう。

「崇教真光が、立教五〇周年の佳き日を迎えられました事は、誠に嬉しく喜びに堪えません。私と崇教真光のお付き合いは、変わった形で始まりました。仙台に永年支援を続けている筋ジストロフィーの人々が設立した社会福祉法人がありますが、同じ支援者の中に真光の方がおられ、初めて、『お浄め』を受けた時、確かに身体に変化がありましたので、面白いと思って幾度かお付き合いする内に、佐々木堯章事務局長を紹介され、更に、岡田光央三代教え主を紹介される事になり、『お浄め』を月に一度位の割り合いでお願いするようになりました。

 初代教え主の岡田光玉師が、私が最も憧れていた故秩父宮殿下(登山・スキー・ボートの名人でいらした)と陸軍士官学校の同期生というのも親近感が湧いた理由の一つでしょう。

 丁度この頃、私は父に依頼され、トルコ共和国のカマン・カレホユック遺産の隣接地に四棟の研究所を建設する為の資金集めを始めていました。そこである日、佐々木事務局長に、『毎年五月末に、乗鞍岳で雪渓用のスキー大会があるので、終了後、飛騨高山の総本山に行く事は可能ですし、そこで皆様に協力して頂く為に話をする事は出来ませんか?』と伺いました。そうしたらあれよあれよという間に計画が出来上がり、翌年の大会後、初めて総本山を訪問し、『考古学と福祉』という一風変わった講演をする機会を得ました。有難い事に、多くの個人賛同者も集まり、又本部からも多額の寄付を頂きました。

 研究所は明年七月十日に四棟全てが完成する予定です。」

 皇族が、いわゆる新宗教の手かざしという儀礼を定期的に受け、教団50周年記念誌にカラーページをまるまる使って掲載されていることに驚く人は多いだろう。さらに、寛仁親王殿下は続けてこう記している。

「この折り、私が障害者福祉の話しの中で何げなく『皇族は政治行政が一所懸命努力しても尚且つ光の当たらない処に光を当てるのが仕事なのです……。』と言った事が、三代教え主にいたく気に入って戴いた様で御承知の様な素晴らしい石碑に彫り込まれる事になりました。字は子供の頃から母に、『下手ねえ!』と言われ続けて来たので、母が総本山に来ない事を祈るばかりです。立教五〇周年御目出度う御在います。」

 寛仁親王殿下が揮毫した石碑は、岐阜県高山市にある崇教真光の青年会館前に堂々と建っている。ちなみに同書には、故・秩父宮勢津子妃殿下が、崇教真光の教祖から信仰治療らしきものを受けている写真も掲載されている。世間には知られていない、皇族の信仰事情が垣間見える貴重な資料だ。

 皇室と宗教といえば神道だ、と思う人が圧倒的に多いはずだろう。それは決して間違っていないが、この世間のイメージは、歴史学者エリック・ホブズボームのいう「伝統の創造」でできている【註1】。6世紀の仏教伝来以来、皇室は神道に加えて仏教を取り入れてきた。真言宗、天台宗、禅宗、日蓮宗などを歴代天皇はじめ皇族は信仰してきたし、江戸・徳川時代の14人の天皇陛下は全員が京都の真言宗泉涌寺に埋葬されている。同寺には楊貴妃観音があり、最近は美人祈願の寺としてブレイクし、婚活女子のパワースポットとして有名になっているが、もともとは皇室の菩提寺であり、現行憲法施行前は一般には非公開とされてきた。修繕費も宮内省(当時)が担当してきたが、戦後はその管理下を離れざるを得なくなり一時荒廃したために、有志によって「御寺泉涌寺を護る会」が発足。初代総裁を三笠宮崇仁親王が務めた。現在は秋篠宮文仁親王が二代目総裁を務めている(同会会長は元トヨタ自動車会長・奥田碩)。また、明治天皇の側室の子は5人全員、護国寺など寺院に埋葬されている。

 皇室=神道という図式が強まったのは、明治の神仏判然令が契機になっている。これによって皇室から神道以外の宗教的要素の排除が徹底され始め、国家神道の頂点を司る天皇=現人神という思想が形成されていったのだ。終戦後、GHQによって神道指令が出されて国家神道は解体され、それ以降、皇室と宗教の関係はさらに変化し、ときに摩擦も起こしてきた。皇族に対しては、現行憲法でも皇室典範でも信教の自由については言及されておらず、その解釈にはいまだ議論が絶えない。以降本稿では、戦後以降の皇室と宗教の関わりを洗い直し、その関係性を再び考えてみたい。

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