『親鸞』など、宗教を探求する作家・五木寛之が説く “病める時代”における「悪」の思想

――未曾有の時代を生き抜くヒントを示す新作『選ぶ力』(文春新書)を上梓したばかりの五木寛之氏。五木氏は、中世のドストエフスキーといわれる親鸞を小説として描くなど、かねてより仏教に深い関心を寄せ、今もなお、仏教、ひいては宗教そのものを考察し続けている。そこで、五木氏に仏とは何か? 悪とは何か? といったことまで、宗教関連の著作を出しているノンフィクション作家の大泉実成がとことん訊いた。

(写真/江森康之)

 東日本大震災と原発事故から1年半が経過した。しかしそのとき提示された課題が一向に解決されぬままに政治は混迷し、経済は閉塞し、日本人は未来を生きる指針を見出せないでいる。そうした状況の中で、1990年代から一貫して「他力」を主張する五木寛之氏は、親鸞や蓮如など魅力的な仏教者たちを紹介することによって、仏教の持つ根源的な力を人々に届けようとしているように見える。

――ここ数年、仏教ブームと言われています。

五木 そう言われますが、実際はどうかなと思います。阿修羅像の展覧会がはやって、仏像ガールとかも話題になりましたね。でも一過性なんじゃないのかな。今の若い人たちがそういうことにあまりハードルを感じずに接したりできるのは、いとうせいこうさんとかみうらじゅんさんの影響が大きいと思います。彼らの著書『見仏記』(角川文庫)は隠れたロングセラーですから。仏教をああいうふうにとらえてもいいんだという。ただ、僕はやはり仏教は老年、つまり晩年の宗教だと思う。人間は死のことを考えるけど、やっぱり60歳を過ぎないと現実感がない。戦争中なら死と隣り合わせという実感もあったんですけど、仏教はやはり死を目前にして晩年に人がどういうふうに人生を締めくくるかという宗教だから、若い人に関心を持てと言っても難しいかもしれません。

――確かに日常には怖いことがあまりなくて、死やホラー的なものが遠いです。ある時、ルドルフ・オットーという哲学者が、「神的なものと出会ったときに、いろんな夾雑物を取り除いても最終的に残るのがヌミノースという宗教的な怖れの感情なんだ」と言っているのを知って、みんな潜在的に宗教的なものを求めているんだなと感じました。

五木 史上最大のホラーといえば、10~12世紀頃にあった恵心僧都源信の仏教書『往生要集』です。その中で極楽と地獄の姿を書くんだけど、極楽は本当はつけたしなんですよ。でも地獄はすごい。その源信が書いた地獄の観念が当時の人々にものすごくリアルに伝わって、壁や襖や壁画として描かれた。道端で『往生要集』を広げて芸人たちが声高に地獄のすごさを語り、そうやって植えつけられた地獄への恐怖感といったらなかった。死んだら即地獄というのが当時の人たちの現実的感覚だったんです。その現実感覚の中でどうしたら地獄に行かないで済むか。ちょうど11~12世紀は政権交代の時期で、優雅な王朝政権が揺らいでパワフルな関東の武家社会が勢いづいていた。そういう時に天変地異が起こって、大地震や飢餓凶作があって地方の農民たちは土地を捨てて流民となって大都市に流れてくる。人々は最終的には人の肉を食ってでも生きていかなければならない。生きて地獄、死んで地獄はもっと怖いと怯えつつ生きている中に、法然とか親鸞とか日蓮、道元、栄西、明恵、一遍なんて僧が輩出されるわけですよね。大きな政治的混乱の中にある今とちょっと似ていますね、3・11も含めて。じゃあなんでこういった状況で法然や親鸞のような人が出てこないんだというのをよく聞かれるんです。僕の解釈ではそういう人たちを求める大衆の情念が弱いからじゃないかと。そういう人たちは自分から出てくるのではなくて、他力で時代に呼ばれて引っ張り出されてくるものなんですよ。優れた指導者を我々は求めていない。引っ張ってくれる人が欲しいという情熱が今の日本の民衆の中にみなぎっていないでしょう。

――僕が地獄を知ったのは「少年マガジン」(講談社)の水木しげるさんの地獄絵図です(笑)。だからすごくカジュアルなんですよね。

五木 なんか最近のマンガだとブッダとキリストがニートみたいになって下宿してふらふらする話あるでしょう。

――『聖☆おにいさん』(講談社)ですね。

五木 あれを読んで、最近の人たちは、こういうキリスト像に親しみを感じるのかと思いました。

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