朝日新聞・奥山俊宏記者に訊く! すべてを露わにするタブーなき調査報道

──調査報道とは、いわゆる発表報道と対になる言葉だ。メディア自身が自ら探ってきた問題点を独自に取材・調査して報道するスタイルのこと。調査報道の本質とはなんなのか? その道のプロフェッショナルに話を訊いた。

奥山俊宏氏

 本企画では、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌、それぞれの各メディアのリアルな現状と、その問題点などを、語っていただくことにする。

 まずご登場いただいたのは、朝日新聞報道局特別報道部の奥山俊宏記者。福島第一原発の事故以来、被災地、東京電力、政府、関係省庁などの言葉に耳を傾けつづけ、調査報道スタイルでスクープをものにした記者だ。

──そもそも調査報道を始めたきっかけは?

奥山俊宏(以下、奥山) 大学を卒業して朝日新聞に入って最初に配属されたのが、茨城県の水戸支局なんですけど、当時はバブルの全盛期。数千万円というゴルフ会員権が飛ぶように売れていた時代で、特に茨城県ではゴルフ場がどんどん造られていたんです。赴任2年目から市町村担当になって各役場や各議会をあちこち回るようになってみたら、そのゴルフ場開発が地元の人たちにとって大問題になっていた。地権者はそれまで大した価値のなかった山林をいい値段で売却することでお金持ちになった一方で、周りに住む人たちにとっては、それまで木々が生えていた山林が突然造成され、丸裸になり、農薬などによる環境汚染の問題も起こっていた。カネがばらまかれ、違法に土地が先買いされ、業者と行政や政治家との癒着の疑いもあった。そういう多くの歪みや問題を取材する機会に恵まれたんです。

──以来、調査報道一筋ですか?

奥山 バブルの崩壊によってあぶり出された経済事件を調査報道的なスタイルで追いかけた記事が新聞の社会面のいわば花形になっていた90年代には、まさにその現場にいましたし。00年代に入ってからは、02年9月に社会部内に調査報道班(通称IR班)が新設された際にそのメンバーになり、06年4月に社会部という枠組みではなく、編集局長直轄の組織として社会、政治、経済など各部から10人以上の記者を集めて調査報道を専従で行う特別報道チームが立ち上がった時も、私にとってはラッキーだったんですが、その初代メンバーになりました。で、今に至るという感じです。

──なぜ00年代に入って専従チームが?

奥山 以前から、大阪本社の社会部にプロジェクト班という専門の班があったり、調査報道をしている諸先輩方はいましたけど、特にここ10年、社内に限らず、一般的にも、調査報道の重要性を意識した議論が高まっています。ほかにはない新聞の最大の強みは調査報道にある、今こそ調査報道によって新聞の力が世に示されるべきだ、示されなければならない、という発想やムードが強くなっていった。ジャーナリズムの権力監視の機能への期待が以前にも増して高まっているのは間違いないと思います。

──ご自身が手がけられたもので「これぞ、調査報道」とお感じになっている記事はありますか?

奥山 同僚の砂押博雄記者とともに取材して12年2月24日に出した「できなかった放射能拡散測定ヘリ待ち合わせ失敗」という記事は調査報道らしい調査報道だったと思っています。原発事故直後、米エネルギー省は放射能検出器を積んだ米軍機を使って放射能の拡散状況を測定する「航空機モニタリング」を行い、その結果を3月22日には発表した。そのことを取材する中で、「なんで日本政府にはできなかったんだろう」という疑問が浮かびました。原子力政策の立案にかかわるある政府高官は私たちの取材に対して、そもそも日本には航空機モニタリングの発想がなかったんだと当初言ってました。でも、ある人が「日本にもあるんだよ」と教えてくれました。秘密でも何でもなく、文科省の外郭団体・原子力安全技術センターが青森県六ヶ所村の防災技術センターにシステムを装備していて、取材したら「自分たちも使いたかったが、自衛隊のヘリは全部人命救助にあたっていて、公園でヘリを待ったんだけど来てくれなかった」と。文科省も同じことを言った。防衛省もいったんそれを認めた。ところが、さらに事実関係を詰めていくと話が違ったんです。防衛省に細かく話を聞いてヘリの飛行記録にもあたってもらったら「実は、文科省の依頼で六ヶ所村に一機ヘリを出したんだけど、誰も来なかった」という話が出てきた。つまり、待ち合わせに失敗していたんです。文科省や原子力安全技術センターの人たちはそのことを知らず、「自衛隊のヘリは来てくれない」と思い込んでいて、その結果、事故発生から2週間、空からの放射能測定が行われなかった。

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