ビデオジャーナリストと社会学者が紡ぐ、ネットの新境地
今月のゲスト
古沢広祐[国学院大学経済学部教授]
古沢広祐氏の著書『共存学:文化・社会の多様性』(弘文堂)。
6月下旬、ブラジルのリオデジャネイロで「国連持続可能な開発会議」(通称「リオ+20」)が開催された。20年前に同地で行われた地球サミットの成果検証や将来の目標設定のために開催された同会議だが、閉幕後には「失敗だった」との批判を受けることとなった。地球規模の問題を考える同会議はなぜ失敗したのか? 国際社会に山積する問題を考える――。
神保 今回のテーマは、ブラジルのリオデジャネイロで行われた「リオ+20」(国連持続可能な開発会議)と呼ばれる国際会議です。1992年、世界の貧困の撲滅や地球環境を保全するための国際会議「リオ地球サミット」(国連環境開発会議)が開催されました。それから20年が経過し、その時に交わされた約束がどれだけ守られているかや、その成果などを確認するため、6月20日から22日にかけてリオで行われた会議が「リオ+20」です。ここのところ日本では世の中の関心が消費増税や原発の再稼働問題などに集中しているため、この会議の存在すら知られていないようですが、世界の現状を考えると、この会議はとても重要なテーマを議論しています。
20年前に解決に乗り出すことを約束したはずの貧困や環境問題は、当時よりも深刻さを増しています。冷戦が終わり、人類がよりよい世界を作るために動き出したはずが、なぜそうならなかったのか。このテーマは一度、マル激でもしっかりと検証する必要があると考えました。
ゲストは、20年前も今回もリオの会議に出席された、国学院大学経済学部教授の古沢広祐さんです。初めに、今回のリオ会議は20年前と比べるとどんな印象でしたか?
古沢 20年前のリオ地球サミット、また10年前のヨハネスブルグサミットと比較すると、盛り上がりが10分の1ほどにトーンダウンしていた印象です。世界全体の方向転換を迫る、楔を打ち込むような議論に期待しましたが、それどころか20年前に打ち込んだ楔が抜け落ちかねないような状態だった。もっとも、「20年前のリオの精神は消えかけており、再び火をつけなければならない」との危機感を喚起する意味合いはあったと思います。
神保 なぜ、そこまで盛り下がってしまったのでしょうか?
古沢 20年前のサミットは、冷戦が終結し、東西の対立構造がなくなったことで、南北・貧困問題や地球環境問題など「人類が共通課題に取り組むスタートラインに立ったんだ」という雰囲気があった。しかし、20年が経過した今は、9・11やリーマン・ショックを経て、世界の構造がガタガタになっている。もう一度、世界共通の重要課題に取り組むというリオの原点に戻る機会だと思いますが、残念ながらそこには目が向いていません。
神保 乱暴な言い方をすると、冷戦が終わり、資本主義と共産主義の対立では前者が勝ったかと思いきや、かえって資本主義に内在する問題が噴き出してしまった結果、貧困や環境の状況はさらに悪化してしまったと、そんな理解でいいのでしょうか。
宮台 冷戦体制下では、巨額の軍事費でパワーバランスを保っていたため、ガバナンスコストが相当にかかりました。冷戦体制の終焉後、軍事コストをかけなくて済むようになると思われたので、当時はそれを「平和の配当」と呼びました。配当とは「武力に用いていた資金を、これからは新しい課題――例えば貧困撲滅――に向けて使える」という意味です。
冷戦終焉は89年から91年にかけてです。冷戦終焉後、東側の西側への組み込みを駆動因のひとつとして資本移動自由化が爆発します。でもリオ地球サミットが開かれたのが直後の92年だったので、当時は資本移動自由化はさほどではありませんでした。20年後の今は資本移動自由化が進み、「BRICs(ブリックス)」など数々の新興国が現れています。どのみち新興国に追いつかれる産業領域で先進国が頑張ろうとすると、利潤率均等化法則ないし生産要素価格均等化法則どおり労働分配率を下げるほかないので、貧困化と格差化が生じます。
その結果、税収減が進むにもかかわらず、再配分要求が高まります。むろん税収減で緊縮財政以外の選択肢はありません。グローバル化対応には「小さな政府」しかないのです。でも、緊縮化の痛みや不安ゆえに「大きな政府」を主張するポピュリストが大統領になったり与党を形成したりします。すると政府と国民に財政健全化の意欲がないと見なされ、国債と通貨が売られます。国債を買ってくれていた外国の銀行なども痛手を負って倒産するので、地獄に吸い込まれるように全体が沈んでいく――。これが欧州信用不安の本質です。
一口で言えば、グローバル化の進展で〈グローバル化対応と民主主義の両立困難〉が浮上したのです。「富の配分」が課題とされた昔は「平和の配当」、つまり貧困撲滅などを意識できました。でも「不利益の配分」「リスクの配分」が課題とされる今は、先進国の内部でさえ不利益のツケ回しで紛糾するありさま。地球規模の貧困撲滅どころじゃありません。先進国の首脳や与党がそんなことを主張したら確実に選挙でしっぺ返しを食らいます。それが、リオ+20がトーンダウンした理由です。
神保 92年のリオ地球サミットは、冷戦の終結による平和の配当への期待と同時に、そこから冷戦後の新しい秩序が生まれ、グローバリゼーションの進行による金・人・物の流れの自由化の出発点でもあったわけですね。結果的に、後者の怒涛の流れが、前者を含めた多くの期待や希望を押し流してしまったまま、今日に至っているという事なのだと思います。
とはいえ、リオで合意された内容は、人類にとっては普遍的な価値を含んだものだったと思います。それを簡単に忘れてしまっていいとは思えません。
そこでまず、20年前にリオで何が約束されたのかを、確認しておきたいと思います。要するに、われわれ人類が過去20年の間に本来はやらなければならなかったのに、やらなかったことは何かという話になります。「リオ宣言」「持続可能な開発」「行動計画『アジェンダ21』」「森林原則声明」の4項目について、簡単にご説明いただけますか。
古沢 「リオ宣言」は、「人類全体が共有すべき地球の憲法を作り、21世紀に向けて人類が踏まえるべき原理原則を確認しよう」という目標を掲げたものです。「持続可能な開発」は、87年のブルントラント委員会(84年、国連に設置された「環境と開発に関する世界委員会」の通称)で報告書が出されていて、リオサミットでは重要なキーワードとして掲げられていました。このあと、世界中に広がっていきます。「行動計画『アジェンダ21』」は、「生物多様性条約」と「気候変動枠組条約」だけでは収まらない、さまざま課題についての行動計画です。テーマ別に40章に分かれた大文集で、基本的な人類の課題をまとめ上げています。「森林原則声明」は、世界中の森林に関する問題について、国際的に解決していくことを目標にした森林条約を作ろうというものでしたが、条約までは進まず、声明にとどまりました。
神保 当時は冷戦が終わり、それまで軍事に割かれていた予算や人員、技術を“平和の配当”として、地球をよくするために使おうという気運が高まっていました。日本の宮澤喜一首相は国会が二転三転したため参加できませんでしたが、アメリカのブッシュ大統領をはじめ、各国の首脳も参加しています。ただし、ブッシュについては会議に参加したことを評価する声がある一方で、一部のNPOなどからは「石油業界の意を受けて、会議を潰しに来た」との悪口も聞かれましたが、アメリカ大統領がこうした会議に参加したのは画期的なことでした。
古沢 私自身、会議に参加して「これから世界が変わるんじゃないか」という勢いを強く感じました。また、国家的な利害を調整することには限界があるため、なんとか市民の参画をということで、NGOが参加し、国と市民の緊張関係も入れ込みながら世界の枠組みについて考えていくような仕掛けもあった。世界中の市民社会から約4万もの人が集まったのは、非常に画期的でした。国際的な連帯がローカルとグローバルをつないで広がるきっかけを作ったサミットであり、その盛り上がりはすごかった。
神保 参加者は「より平和で、豊かで、格差のない社会」を、本当に期待している様子でしたか?
古沢 舞台裏では湾岸戦争など、きな臭い状況がありましたが、期待は大きかったと思います。参加者には「これからは南北の貧困や世界の環境の問題を、われわれ人類の共通課題として取り組もう」という熱意があった。
神保 リオサミットを象徴すると言われている有名なスピーチがあります。当時12歳だった日系カナダ人、セヴァン・スズキさんのものです。
「今、戦争のために使われているお金を環境や貧困問題のために使えば、地球がすばらしい場所になることくらい、子どもの私でもわかります。私の父は“人の価値は何を言うかではなく何をするかで決まる”と言いました。だから今大人たちがやっていることを見ると、私は悲しくなります。私たちを本当に愛しているのなら、それを行動で示してください」
セヴァンさんは現在、32歳。今も環境問題への取り組みを続けていて、今回のサミットでも講演をしていました。当時の彼女のスピーチを聞くと、「あんたら、ちゃんとやりなさいよ」と、大人の尻を叩いていることがわかる。当時も「憲章」になるはずだったものが、最終的には「宣言」に格下げされたり、「条約」になるはずのものが「声明」になったりと、会議を潰そうとするような動きがあったことはまちがいありません。しかし、当時はそれを乗り越えようとする時代の流れや人々の熱意があった。今回の会議では、あまりそれが感じられないように思います。
ひとつのバロメーターとして、90年と2010年を比較した「国別CO2排出量」があります。現在、排出量のトップは中国。世界の全排出量に占める割合は10年のデータで26・2%です。90年の段階でも、中国は人口が多いだけあって排出量は世界3位でしたが、世界全体に占めるパーセンテージは10・5%で、この20年間で世界全体の排出量に占める割合が2倍以上に急増しています。また、インドも世界7位だった90年の2・7%から、10年には5・3%で3位に。これも約2倍です。90年に23・3%で1位だったアメリカは、10年には17・7%で2位に。日本は90年が4・8%で4位、10年が3・7%で5位。日米やヨーロッパの先進国はもともと排出量が多かったとはいえ、この20年で排出量はほぼ横ばいか微増、全体における比率は中国やインドが増えた分だけ減っている状況ではあります。
全体としては、先進国のCO2の排出量も経済成長も頭打ちになる一方で、新興国の経済成長がめざましく、その分CO2の排出量も激増していることが目立ちます。結果的に地球全体の排出量も216億トンから、317億トンに上昇しています。そこで先進国は、「新興国もCO2削減の責任を負うべきだ」という主張をするようになった。これに対して新興国の側は、「先進国は地球から搾取し続けて現在の地位を築いたのだから、最近の数値だけを見てわれわれの責任を問うのはアンフェアである」と反発し、あらゆる国際会議がその対立によって閉塞状態に追い込まれている状態にある。
どちらの言い分にも一定の正当性はあるのでしょうが、問題はその対立のために、地球環境を守るためのあらゆる交渉が暗礁に乗り上げていること。そして、その間もCO2の排出は増え続け、地球環境の劣化も進んでいることです。
CO2については、京都議定書によって世界合計の排出量を90年の実績よりも減らすことで合意ができていたはずのものが、現実には世界全体で増え続けていること。京都議定書でCO2排出量削減の義務を負っていた国の排出量が、既に世界全体の半分以下になっているのだから、先進国が削減しただけでは追いつかないのも当然です。その意味では、新興国にもなんらかの削減義務をのませるしかない。しかし、その一方で、国民一人あたりの排出量では、まだ中国やインドなどよりも先進国のほうが圧倒的に多いのも事実なので、いつまでも合意ができない。
古沢 おっしゃるように、気候変動についてはクリアな対立構造が見えます。今回のリオ+20でも、先進国と新興国・発展途上国の間で、責任の所在や資金援助をめぐり、旧来の対立構造が見えました。今回は経済システムについてグリーン・エコノミーを推進しよう、というテーマが大きな柱になりましたが、これをめぐっても対立が見られます。
神保 誰と誰が、どう対立するのでしょうか?
古沢 やはり、先進国と新興国・途上国です。先進国側はすでにグリーンイノベーションを進めており、新興国・途上国側からすると、エコカーにしても、省エネ技術にしても、一足先を行っている。「われわれはその枠組みの中で規制を受け、従属させられるだけだ」という主張がありました。
20年前のサミットでは、「持続可能な社会」を作るというコンセプトが設定されましたが、現在に至るまで、気候変動、生物多様性、貧困問題などを包括的に考えるのではなく、それぞれ別の軸で動いていることが課題になっていました。そんな中で、今回は各国が、持続可能な開発・発展に関する総合的な目標=「サステナブル・デベロップメント・ゴール」(SDGs)を作ることに合意しています。
宮台 SDGsを提起し、リードしたのは、新興国ではなくコロンビアやグアテマラだったそうですね。これにはどんな事情があるのでしょうか?
古沢 コロンビア、グアテマラのある中南米は、キューバ・ボリビア・ベネズエラという反米三国同盟があり、今回も最終的なセッションで各国首脳が演説する際に、ボリビアのモラレス大統領が「グリーン・エコノミーは新たな植民地主義だ」と批判しました。その中で、特にコロンビアの人たちは、ベネズエラ・キューバなどとも連携しながら、先進国との協調と両にらみをしている、というのが私の印象です。今回の会議にもそうしたスタンスで参加し、彼らなりに先を見た問題提起を行ったのでしょう。
宮台 20年前は「新興国」というポジションがなく、「第1世界=西側」「第2世界=東側」を踏まえた「第3世界」ないし「途上国」という括りでした。ところが冷戦終焉後、「第3世界」から「新興国」が台頭してくると、ガチンコで競争して労働分配率切り下げ競争になるのを回避するため、先進国は「グリーン・エコノミー」という新たな市場を作る産業構造改革に向かいます。これは地球環境問題というパブリックな目標がかかわりますが、経済的生き残りというエゴセントリックな目標ともかかわります。「新興国」の中国はそれを見抜き、一挙に太陽光パネルと風力発電塔の市場に雪崩れ込むことで、かつて首位だったドイツのパネルメーカーQセルズを倒産させるまでに至りました。そんな中、「新興国」にも取り残された「第3世界」は「グリーン・エコノミーは富んだ国を富ませるだけ」「貧しい国には環境よりも切羽詰まった問題がある」と主張するしかありません。