──国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか……気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。
第24回テーマ「ポストモダンが見誤る市場経済」
[今月の副読本]
『資本論 (一)』
カール・マルクス/岩波文庫(69年)/882円
言わずと知れた、マルクス経済学の根底をなす不朽の古典。初版は1867年に刊行。資本主義における市場経済や経済法則を分析し、その矛盾を顕にしながら社会主義の到来と必然を問う、当時としては画期的な論考だった。
個人的な話からで恐縮ですが、私が大学に進学したのは1989年のことです。そのころの人文思想界ではポストモダンが全盛期で、少しでも哲学や思想に興味がある学生はほとんどと言っていいほどポストモダン思想(として紹介されていたもの)に感化されていました。愛知県の某地方都市でさして文化度の高くない高校生活を送っていた私は、ポストモダンなどというものが思想界を席巻していることを大学に入るまでまったく知らず、したがって当時スターとしてあがめられていたデリダやドゥルーズといった哲学者たちの名前も知らなかったので、大学で先輩や同級生がポストモダンの用語や思想家の名前を使っていろいろと議論しているのを見て驚いたものです。
ただ、その当時日本でなされていたポストモダン論議の大部分は、いまから振り返るとひじょうにしょうもないもので、当時よく話題にのぼっていた本や論文をいま読むと、あまりの無内容さと独りよがりな物言いに「よくこんなものにみんな熱中していたな」と恥ずかしくなってしまいます(もちろんだからといってドゥルーズやフーコーの議論が無内容だということではありません、あくまでも日本の思想界での話です)。あの時代、輝いてみえたポストモダン思想も、実際のところは、大学の研究者も含め、多くの人が「外部」だとか「力」とかいったポストモダン用語に振り回されて、本当は自分たちでもよくわかっていないことを印象論のレベルで論じていただけでした。ですので、当時のポストモダンの議論が現代の思想論壇やアカデミズムに有意味な影響をほとんど与えていないのも当然のことでしょう。とはいえ、それでもなお当時のポストモダン議論に影響を受けつづけ、当時のままの語彙や物言いで思想を論じている人間がまだまだいるのも事実で、そういった人間をみると、バカにつける薬はないというか、端的にうんざりします。