五輪の申し子・橋本聖子が壮絶な五輪愛を激白!「生理も止まった執念の十二年史」

──スピードスケート、自転車競技という二足のわらじで、1984年から96年まで7回五輪に出場しつづけた“超人”橋本聖子氏。いったい橋本氏の並々ならぬ五輪に対するこだわりの源泉とは!?

(奥山智明/写真)

 橋本聖子。スピードスケート、自転車の日本代表として日本最多記録(女子としては世界最多記録)となる7回の五輪出場を誇る、正真正銘の“五輪の申し子”。そのキャリアを見れば“日本初”と“新記録”尽くし。東京五輪開会式の5日前に生まれ、聖火に感激した父親から五輪選手になるよう「聖子」の名を授かったというから、もはや伝説や神話の人物に近い存在であることに疑いはないだろう。おまけに子どもの名前まで五輪にちなんでいるという筋金入り。彼女にとって五輪の魅力とはなんなのだろうか? 

──そもそも世界中の人を惹きつける五輪の魅力とは、なんだとお考えですか?

橋本聖子(以下、橋本) 五輪に出る選手の肉体は「最高の芸術作品」だと私は思っています。この芸術作品が人々を魅了するのではないでしょうか。私はそう感じて、五輪の世界で生きてきました。

──五輪を意識されたのは、一体いつ頃だったのでしょう?

橋本 記憶がある年齢ぐらいからですかね。五輪がなんなのかわかっていないうちから「五輪になる!」と口癖のように言っていました。五輪選手ではなく、五輪そのものになりたい、と(笑)。スケートで五輪選手になると理解したのは、小学校2年生のときに札幌五輪を見たときです。

──「聖火」から聖子の名を付けたお父様から五輪に対する想いを伝えられることは?

橋本 特になかったです。ただ、非常に厳しい父だったので、その厳しさを基本にしていれば、五輪を目指すことも辛くはありませんでした(笑)。反抗期はありませんでしたね。もし反発が目に見えたら、それこそ大変な叱責を受けたと思います(笑)。池に放り込まれるのは当たり前、今なら虐待だと思われるようなこともありましたが、私の将来のためを思ってくれたわけですから、最大の愛情表現だったと思います。

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