相撲部屋を裏で支える女将さんという存在

 今回は、相撲界を陰で支え続ける女将さんという存在とその思い出を書いてみたい。

 親方が相撲部屋における表の看板(顔)なら、裏の看板は女将さんだ。女将さんの存在を語らずして、相撲部屋の話はできない。

 俺が世話になっていた春日野部屋や本家筋に当たる出羽海部屋などは、関取から若い者まで70~80名の力士、それに若い床山、行司、呼び出しまでが一緒に暮らしていた大所帯だった。その中で、女性は女将さんただひとり。それだけ考えても、並の女性ではとても務まるものではないことがわかるだろう。

 大勢いる若い力士の中からは、病気やケガをする者、厳しい稽古や集団生活に弱音を吐く者、そのほか悩みを抱えた者たちが出てくる。女将さんは、そうした者すべての相談相手になり、優しく話を聞いてあげて、アドバイスをするのである。女性ならではの包容力、そして親方を支えたいという強い愛情があってこそ、務まる役割といえるだろう。そうした状況は、昔も今も変わることがないはずだ。

 俺もこんなわかっているようなことを言っているが、女将さんの苦労や存在の大きさを理解したのは、現役を終え、一般の社会に出てから。現役時代は、当然のものとして受け止めているので、その偉大さには気づかず、苦労をかけっぱなしだったと思う。

 名人横綱といわれた俺の師匠・栃錦に女将さんが嫁いだのは、昭和32~33年の頃であろう。俺はおやじ(ここからは、師匠のことをこう呼ばせてもらう)の誘いを受け、中学1年のときに山形から上京し、部屋に入門するための準備に入った。そのとき、俺はおやじの家に寝泊まりさせてもらっていたのだ。両国にある竪川中学校にも、その家から通わせてもらっていた。

 まだ結婚間もない家庭に、俺のようなわんぱく小僧が転がり込んできたんだから、女将さんもさぞ困ったんじゃないかと思うが、そんなそぶりはみじんも見せず、俺を本当の息子のようにかわいがってくれたもんだ。

 女将さんの第一印象は「きれいな人だなぁ」というもの。女将さんは、銀座のど真ん中にある高級料亭の娘さんだった。俺のような田舎者は見たことがないほどの品性と容姿を持ち合わせていたのだ。

 その頃は、おやじはまだ現役だったので、女将さんは横綱夫人という立場だった。しかし、昭和34年に先代・春日野親方が亡くなると、おやじは現役を続けながらも、春日野親方として部屋を継承することになったのである。横綱と親方、今では考えられない、二枚看板を張ったのだ。

 そんなおやじの苦労も計り知れないものだったろうが、奥さんもまた結婚間もない時期に突然、80名近くを抱える大所帯の女将さんになったのだから、その戸惑いや苦労は一言で表現できるものではなかっただろう。しかも、そこは夫婦のプライバシーなどはまったくない、男だけの世界なのだ。

 元大横綱の奥さんとだけ聞くと、誰もがうらやましい存在だと思うかもしれない。だが実際は、さにあらず。女将さんは、主人である親方の世話はもちろんのこと、ご贔屓筋や後援会、近所との付き合い、そして、前述した弟子の世話までやらなければならない。心身ともにゆっくりする暇などなく、その労働量は、とても通常の女性には務まるものではないのだ。

 実際に、部屋に入る前の女将さんは、ぽっちゃりとした笑顔の素敵な美人であったが、年を増すにつれ、やせ細ってしまい、まるで別人になってしまった。晩年は、体は骨と皮ばかりになり、体重も40キロを切っていたようだ。

 女将さんのたまの気晴らしといえば、デパートに買い物にいくこと。よく「一緒に来てくれる?」と声をかけられた俺は、デパートまでお供し、山ほどの荷物を持たされたものだ。当時は、女将さんの心情などいざ知らず、「冗談じゃねえや、俺は、こんなことをするために相撲取りになったんじゃねえよ」などとぶつぶつ言っていたもんだが、今となっては、反省しきり。もう少し女将さんの力になってあげられてたらと思う。

ブランデーで酔わせて女将さんに花札で快勝

 女将さんは、俺たち若い力士とも気さくに遊んでくれたなぁ。

 あるとき、若い力士たちが、部屋の大広間で何をするでもなくボーっと集まっていると、そこに女将さんが顔を出した。

「みんな、どうしたの? 若いのに元気がないねぇ。めくり(花札)でもして、元気を出しなさい。もちろん、私も入れてよ」

 花札をするからには、金を賭けるわけだが、女将さんとやるときもそれは一緒だった。賭ける金は、1勝負につき100円とか200円とかの小さな額だが、勝負事となれば、相手が女将さんであろうが関係ない。やるからには、勝たなければならない。

 しかし、女将さんの花札の腕前はなかなかのものという噂で、過去に手合わせした先輩力士たちも、そう簡単に勝たせてもらえなかったということを聞いていた。そんなとき、俺の頭にひとつの名案が浮かんだ。

 おやじは、酒がまったく飲めない下戸だが、女将さんは結構いける口だったのである。特にブランデーが好みのようであった。そこで思いついたのが、酒を飲ませて、女将さんを酔わせてしまうという作戦だ。

「確か、奥の部屋のサイドボードの中に高級そうなブランデーがいっぱいあったな。あれを1本持ってこよう」

 仲間とそんなひそひそ話をして、そのうちのひとりが奥の部屋に忍び込み、最も高そうなブランデーを拝借してきたのだ。

「女将さん、これはタニマチから頂いたものです。どうぞ飲んでください」

「あらそう。ずいぶん気が利くねぇ。ありがたく頂くよ」

 もちろん、奥の部屋にあったブランデーは、親方夫妻が後援者から頂いたもの。自分のものとはつゆ知らず、女将さんは「あら、おいしいわねぇ」と、上機嫌でクイクイ飲んでいく。

 杯が進むにつれ、女将さんは酔いが回って、気持ちが大きくなっていくのがよくわかった。

 酔っているので、いつもの思考も勘も鈍ったのだろう、花札でも負けが込む女将さんは、賭ける金額だけは大きくなり、みるみる手持ちの金がなくなっていった。そして挙げ句に、財布に入っていた金を俺たちが全部奪ってしまったのだ。完勝である。

 完全に出来上がった女将さんは、大敗にもかかわらず、上機嫌でふらふらと自分の部屋に帰っていった。俺たち若い力士は、顔を見合わせて、ゲラゲラと大笑い。

「やったぜ、かなり儲かったぜ!」

 ところが、女将さんと入れ替わるように大広間にやってきたのは、赤鬼のような形相をしたおやじだった。

「この野郎、俺のかかあに何をしたんだ」

 まずい。こんな早く、師匠にバレるとは。俺たちは、ブランデーのボトルを隠そうとしたが、時すでに遅し。すぐに見つかってしまった。

「その酒はなんだ。奥のサイドボードから、テラ切ってきたんだろうが。この馬鹿野郎が!」

 ここでいう「テラ」とは、相撲用語で、「盗む」とか「かっぱらう」という意味の言葉。テラの語源は、お寺のことらしい。今も昔も博打はご法度だったが、寺院だけは治外法権とされてきた。役人も足を踏み入れられるところではなく、それを利用して、自由に博打が行われていたのだ。そこから、人の目を盗んで悪さをすることを、テラというようになったのだろう。ちなみに、寺院で博打をする際に使用料として支払われていたのが、今でもよく使われる「寺銭」だ。言葉の語源とは、おもしろいものだな。っと、それた話を元に戻すとして……。

 赤鬼と化したおやじは、俺をにらみつけて、「こんなことを考えつくのは、桜、お前だろう」と、サザエのつぼ焼きのようなゲンコツを、俺の頭に2~3発食らわせたのだ。師匠に怒られるのはいつものことで慣れているとはいえ、このゲンコツの痛さだけは、何度食らっても変わらない。

「イテテ……。単なる遊びなんですから、そんなに怒らなくていいじゃないですか……」

 そう愚痴っていると、上機嫌の女将さんが部屋にまたやってきて、笑いながら、こう言った。

「親方、いいじゃないの、そんなこと。私も最初から、この子たちの魂胆はわかっていましたよ」

「えっ? なんだい。バレてたのかよ」

 女将さんは、別にブランデーで酔おうが花札で負けようが、そんなことはどうでもよく、俺たち若い力士の気晴らしに付き合ってくれようとしていたわけだ。俺たちの作戦も、最初から見抜いていたんだろう。

 女将さんの強さや包容力に脱帽させられた一幕だったなぁ。今考えてみれば、そういうことはちょくちょくあった。

 一方、おやじは女将さんと同じく器の大きい人間だったが、厳しくいくところは徹底して厳しかった。それゆえ、この事件の翌日の朝稽古では、花札に参加した者全員が猛稽古をさせられたもんさ。今となっては、奥の部屋でいつもニコニコと笑っていた女将さんの笑顔とともに、良き思い出になっているエピソードだ。

 相撲部屋での生活っていうのは、単に厳しくてつらい修業に追われるだけの日々じゃないんだぜ。団体生活ならではの、人情味あふれる楽しいこともよくあるのさ。そうした親方夫婦の温かい愛情に包まれて、一人前の力士、いや人間として育っていくもんだ。

 そんな女将さんも、さまざまな苦労がたたったのか、わずか五十代半ばで、惜しまれながら、この世を去った。師匠はもちろんのこと、俺たち弟子も、人目をはばからず、大粒の涙を流したことを昨日のごとく思い出す。

 俺も天国に行ったら、女将さんともう一度、笑いながら花札をしたいね。そのときは、大好きなブランデーは、俺がプレゼントさせてもらいますよ。

たかはし・みつや
元関取・栃桜。現役時代は、行司の軍配に抗議したり、弓取り式で弓を折ったり、キャバレーの社長を務めるなどの破天荒な言動により角界で名を馳せる。漫画あ「のたり松太郎」のモデルとの説もある。

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