世界的アニメーション監督の押井守がリスペクトする表現者の"二世"と語り尽くす、不定期連載「押井守の二世対談」が、2年ぶり(!)に登場。第4回のゲストは、『人狼 JIN-ROH』など押井の作品世界に多大な影響を与えてきた、アングラ演劇を代表する劇団唐組主宰にして芥川賞作家である唐十郎の息子、大鶴義丹。高校時代はレーサーを夢見るも、現在は俳優、作家、映画監督として、気がつけば父と同じフィールドにいたという大鶴は、根っからの押井ファンだという。このたび再婚を発表し、押井と同じように今は娘と離れて暮らす彼は、娘を、父を、母を、どう見つめているのか?唐組の紅テント公演で有名な新宿の花園神社からほど近い場所で、運命の初対面!
押井 この二世対談という企画の立案者は僕自身で、当初の予定としては、僕が好きだった表現者──僕らの時代に決定的な影響力を持っていた表現者の息子さんや娘さんが、今という時代をどう生きようと思っているのかについて話してみたいと思ったんです。直接の動機としては、僕には娘がいるんだけど、娘が生まれてすぐに離婚したので20年間会わずにいた。それが22歳になったとき、突然僕の前に現れた。オトナになった娘がね。それで、爆発的に親としての自覚が生まれちゃって、娘とよく話すようになったんだけど、一昨年彼女が結婚した途端に終わっちゃった(笑)。ただ、娘と出会ったときに初めて下の世代を意識したのね。僕らの世代は、上の世代しか見てこなかった。上の世代に憧れもあり、支配もされ、だから戦い続けてきた。尊敬しつつも、どこかで批判的であらねばならないんだってね。そういう反動もあり、二世と呼ばれる下の世代の人たちと真面目に話してみたいと思ったわけ。そして、あわよくば自分の親父をどう思っているのかを知りたい。それはつまり、僕の娘が僕をどう思っているのかってことにつながるわけだけど(笑)。
大鶴 なるほど(笑)、そこに帰着するわけですね。
押井 いや、でも、それは意外に誰もやってこなかったんだよ。僕が宮さん(宮崎駿監督)と対談するなんてことはもはやなんの値打ちもないし、生産性もない。そうではなく、同時代を生きているということが重要なんだよ。同時代を生きているという意味で、今の自分が話すべき相手は自分より上のオヤジたちではなく、同世代の人間でもなく、下の世代の人間なんじゃないのかと。そういう意味で、義丹君にとってお父さんってどういう存在?
大鶴 そうですね。僕はうまい具合にずれているというか、近い場所にいながら、ギリギリ接点がないような場所で生きてきたんですよね。意図的に僕が避けたのかなとは、40歳を過ぎて思うときもあるんですけど......。父親と一緒に暮らしていたのは19歳までで、僕が大学受験の追い込みをしているとき、父親のほうが家を出て行ったんです。それまでも(夫婦関係は)ゴタゴタしてたんで、まあ、長続きしないかなって。特別驚きもショックもなかったし、それ自体はごく自然な感じでしたね。僕も自分のリズムで生活していたし、基本的に高校時代はオートバイ一筋で。
押井 暴走族?
大鶴 モーターレースです(笑)。走り屋っていうか、峠を走ったりしてました。
押井 お芝居は本筋ではなかったの?
大鶴 当時はどちらかといえば遠ざかっていたくて、自分が知らないスポーツとかレースの世界に首を突っ込んでいましたけど、自分なんかじゃ及びもつかないすごい連中がいることに、早々と気づいてしまった。不思議なもので、文化系の分野に行くと、そういう"かなわないな"って感覚はなかったんですよ。
押井 一番最初にテレビに出たのは、確かお父さんが脚本を書いたドラマ『安寿子の靴』(NHK/84年)の主演だったよね。あれって、まだ10代の終わりの頃でしょ。
大鶴 ええ。そういうところに行くと、なぜだかビビらずにやれたんです。そうすると、それまでやっていた趣味レベルのことは、やっぱり趣味でしかなくて。芸事や文章の世界やお芝居の世界が細胞的に好きなんだなって気づいてからは、迷わなくなりましたね。
押井 ......僕は今、迷ってるんだよね。
大鶴 え?映画監督をですか?
押井 うん、そう。
大鶴 .........。
押井 いや、ホントに(笑)。映画の世界は確かに息がしやすい。義丹君が言った、"ビビらない世界"だね。苦痛でもないし、爆発的に面白いかっていうとそうでもない。もう身体がなじんじゃってる。そういう演出家としての自分は、世界中どこに行っても変わらない。でも、そういうこととは違うんだよね。今は、憧れとしては違うものになりたい。
大鶴 何になりたいんですか?
押井 武道家。
大鶴 武道家......。
押井 うん。55歳を過ぎてから始めた空手だから、世界最強になりたいとかそういうのじゃないよ。武道家っていうのは生き方だから。それは、自分が演出家をやってるってこととまるで違う。突然、ひとりの男になっちゃうわけ。いろんなものが全部消えて、とにかく自分の身体を思った通りに動かしたい。これからも映画を作るだろうし、作れば達成感も感じる。獲得目標もあるし、野心も野望もいまだにある。ただ、それで成し遂げられないモノがあることもわかっちゃった。今の心境としては、武道家としての自分があって、余生として映画を作るという感覚かな。
大鶴 ああ、それは僕のレーサーに対する憧れと近いかも。
唐十郎のすごさは超現実的ではなかった
押井 映画監督になりたいという気持ちは、ずっと持っていたの?
大鶴 ええ。高校の頃から、でっかいVHSのカメラで撮ったりしてました。大学時代に作家でデビューしたのは、その流れの一環みたいな意識がありましたね。ただ、僕は20代後半から5年間、仕事をまるでしてなかった時期があるんです。大学時代に作家でデビューして、『となりのボブ・マーリィ』(95年)という映画を撮ったはいいけど、大麻とかが出てくる映画だったので、いろいろ敬遠されちゃって。ヒップホップミュージシャンが大麻どうこうって言うとバッシングを受けるけど、映画として世の中に出すと、突っ込まれない代わりに無視されちゃう。それが、つい1カ月ほど前に若麒麟が僕の映画を観て大麻を知ったって報道されちゃって。久々に世の中に出たと思ったら、これかよって(笑)。
押井 僕も似たような体験をしたよ(笑)。その空白期間はどうしてたの?
大鶴 前の奥さん(マルシア)がかなり儲けていたんで、僕は子育てしてましたね(笑)。その間にマニアックな小説をいくつか出しているんですけど、ちゃんと働いてはいないです。100万円くらいの小さな船を買って、毎日釣りをしてましたね。ここ数年でようやく、オトナの活動を再開した感じです。
押井 何かきっかけがあった?
大鶴 いや、釣りも飽きたなって(笑)。最近は脚本を書いたり、携帯小説を書いたり、役者の仕事は基本的に来たものはなんでもやります。2時間ドラマの犯人役とか好きなんですよ。
押井 今の自分がいる場所から振り返って、お父さんから受けた影響ってある?
大鶴 最近はすごく意識しますね。演じて書いて演出するっていう三位一体は、やはり親父がやっていたことなので。ある時期は突っ張って「親は関係ない」なんて思っていた時期もあったんですけど、結局、自分がやっていることの原風景を探すと、子どもの頃に見ていた、親父がいた仕事場の風景になってしまう。ウチは家が稽古場だったので、親父は稽古場では役者で、部屋では本を書いていたし、父親の原風景しか今の自分がこうしている拠り所がない。だから最近は、自分からそれを認めて利用しようと。自分の中での気持ちがぶれないようにする拠り所としてですね。
押井 父の存在に対する反発心や対抗心はあったの?
大鶴 世の中で言われるような、そういうのはなかったですね。公演のときはいつも舞台のそばにいましたし、子どもながらに「今回のほうが、前回より面白かったな」とか、お客さんの反応も含めて、そういうことは映画を見るように楽しんでました。ただ、中学生になると、親が芝居をしているのが生々しく見えてきちゃうんですよ。だから、その頃から離れましたね。同時に、父親の持っている演劇の世界観だけじゃなく、ほかのものに惹かれてしまって。中学の頃に『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督によるSF映画の金字塔。82年公開)を見たとき、「ああ、自分はこういうののほうが好きだな」って。
押井 自分の家や親が世間一般と違うという意識はあった?
大鶴 それはもう幼少期からわかっていました。相当異端な所にいるなって(笑)。ウチは稽古場であると同時にチケットの販売もしていたので、宝くじ売り場みたいにガリ版で刷ったチケットがあって、お客さんがそれを現金と引き換えに買っていって、そのお金が置かれていたりしましたから。でも、そういう生々しい現場を見てきたこと自体は、今の自分にプラスになっていますね。芝居とか文章とか、実体のないものに見える創作行為の裏側で、どれだけの汗が流されていたのかを知っているし、そういう作業がこういうふうにお金に換わっていくんだっていうのを八百屋さんの子どもみたいにちゃんと見ちゃったおかげで、「こんなことして食っていけるのかな?」っていう不安を抱かずにいられるいい経験にはなっています。
押井 実体としての演劇空間を、身体的に理解していたわけだ。
大鶴 ええ。だから僕にとって唐十郎という表現者のすごさは、超現実的なものではないんですよね。そうやって、親父の存在を支えている裏側までを普通に見ていたので。親父は素直な人で、「今何がはやっているのか?」とか、よく僕に聞いたりしていたし、僕が面白いと言ったものが次の舞台で台詞になっていたり。そういう印象のほうが強いんです。
押井 そういう関係は今もある?
大鶴 今はまったくないですね(笑)。完全に共通言語を失っています。普通に一緒に焼き鳥を食べに行ったりするんですけど、好みとか見ているところがまったく違うっていうのが、お互いにハッキリわかっちゃったというか。親父は再婚して、今は僕より4つ上の奥さんがいて、僕と腹違いの妹と弟もいるんですけど、その奥さんが言うには「義丹君とうちのパパが話しているのを見ていると、お互いに自分のことだけを言って、早く相手の話が終わらないかって顔をしてる」って(笑)。
自分の路地の中心に父親は立っているか?
押井 じゃあ、逆に、父親を一番でかい存在だと感じていた時期はいつ頃?
大鶴 押井さんがさっきおっしゃった『安寿子の靴』で、父親の書いた脚本のドラマに出演していた頃ですね。その後、『匂いガラス』(NHK/86年)と『緑の果て』(同/90年)までの3本を主演させてもらって。これが最後なのかな。僕自身が少年と青年の狭間にいて、親父の世界観と僕の肉体が合致できた時期。父親が失ってしまった青年の肉体のドラマに、その肉体を持った息子の僕が主演で重なっていくのは、父にとってもうれしかっただろうし、僕も気持ちよく乗っかれましたね。
押井 『安寿子の靴』は、僕にとってもすごく大きなものだったのね。20回以上は見ているし、それで宮さんと高畑さん(高畑勲監督)と三つ巴のケンカになった思い出がある。
大鶴 それは、『安寿子の靴』が原因で?
押井 うん、そう。20年以上前に、宮さんの別荘で一緒に見たんだよ。ある企画を一緒にやっていて、僕がその企画の参考作品として持っていったのね。そしたら宮さんはボロクソでさ。小さな女の子を連れて回る話自体は宮さんにぴったりなんだけど、ああいう俗っぽいものは宮さんは一切やらない。きれいなものはきれいに語って何が悪いっていうのが宮さんだから。ドブにはまっているからビー玉は美しいんだって僕は思うんだけど、宮さんはドブの部分を全部捨てる。それはアニメーションのやり方として正しい部分もあるんだけど、そこでケンカになったわけ。そこに高畑勲というおじさんまでがいて、三つ巴(笑)。さらに、そのとき吾朗君(宮崎吾朗監督)もいたんだよ。彼は当時高校生くらいだったんだけど、すごく夢中になって見ていて、どっぷりはまっちゃった。その後「あの続きはないの?」って父親の宮さんに聞いたらしくて、宮さんはそれでショックを受けた(笑)。
大鶴 (笑)そういわれてみると、押井さんの作品にはドブがよく出てきますね。
押井 ドブっていうのは自分が生きてきた時代でもあるし、子ども時代の原風景でもある。だから、今でも探しているんだよ。東京からドブがなくなったのは東京オリンピックが境目で、なぜドブにふたをしたんだろうって問題は、ずっと自分の中に抱えている。それは『鉄人28号』の舞台をやったときにも思ったんだけど、天王洲アイルの銀河劇場とかさ、すごい小ぎれいでぴかぴかしたホールでやったけど、そこにゴミの山を並べてみたかったわけ。芝居とか映画は駄菓子屋でいいんだって気持ちが、常に僕の中にはあって。
大鶴 美術館の絵画ではない、と。
押井 うん。そういう確信みたいなものを与えてくれたのが、状況劇場(現・唐組)の紅テント公演だった。路地裏でゴザ敷いて、そこに役者がいることで、その風景が一瞬違って見える。匂ってくるものがある。物理的に体臭もするし、客席からの熱気もある。匂い立つような芝居を見せられた後に、必ず、怖ろしくきれいなものが出てくる。ハリボテだったりガラクタだったりの会場がその瞬間、美しい世界に見えてくる。そこに夢が出現する。自分の映画も、そういう所で見てほしいという思いがあるよ。アパートの一室で、ゴミ置き場から拾ってきたようなテレビで見てもいいんだ。最低の画質でもかまわない。最終的にそこで語られた言葉が大事なんであってさ。『安寿子の靴』なんて僕はダビングを繰り返して、テープも作った。音だけでも絶えず聴いていたかったんで、カセットテープに録って持ち歩いていた。義丹君が山椒大夫の一節を朗読するところとか、今でも耳にこびりついている。『人狼 JIN-ROH』(00年)の脚本で赤ずきんちゃんの挿話を入れたのも、そういうこと。そういう意味では唐十郎さんの作品に関しては単に台詞の引用にとどまらず、構造そのものを移植するとか、いろんなことをやらせていただいたよ。
大鶴 そういえば、面白い話があるんですよ。僕は10代の頃に押井さんが原作を書かれた、『犬狼伝説』(「ケルベロス・サーガ」シリーズのひとつ)というマンガを読んで、親父に「これ、好きな世界じゃない?」って勧めたことがあるんです。ケルベロスのプロテクトギアとか戦後の世界観に、親父と似た匂いを感じて。親父は「これは面白い。芝居で使わせてもらおう」って喜んで読んでました(笑)。
押井 あちゃあ......それはキツイな......。
大鶴 僕はブレードランナー的な世界のほうに進みながら、押井さんという作家にたどり着いたけど、結局そこには親父の匂いがあったという。
押井 まあ、それがまさにね、同時代にいるっていうことの意味なんだよ。年の差はあっても、作品を通じて同じものを見て同じ時代を生きているっていうのが。僕が作ったものを見て、自分の生きる時代に言葉を与えてくれたと思ってくれる人もいるんだろうけど、僕もまた自分の世界を語る言葉を唐十郎さんから得てきたわけ。その連鎖からは出られないし、それでいいんだと思う。僕は映画を作るのも小説を書くのも、自分の中の路地を徘徊するのが基本だと思ってる。何か気になることを調べていくと、あ、また同じ場所に出ちゃったという感じで、ぽっかりと道が開ける。それが僕のものを作る瞬間なんだけど、その道ばたに立っているオヤジ連中っていうのはいつも同じなんだよ。唐十郎であったり吉本隆明であったり寺山修司であったり深作欣二であったり。彼らは何かを語ってくれるわけでもなく、助けてくれるわけでも一緒に何かするわけでもない。ただ、立っている。で、最後に義丹君に聞きたいのは、自身の路地の中心にある広場に、父親が立っているということはあるのだろうか、ということです。
大鶴 うーん、どうなんだろう......。
押井 実は、僕は自分の親父を立たせたことがある。『迷宮物件 FILE538』(87年)では、探偵だった親父をそこに立たせた。
大鶴 路地というのはすごく感覚的にわかるんですが、僕の場合、父親はいないかもしれませんね。逆にスタート地点でかなり大きな影響を受けているからかもしれないですが、最後の広場で出逢うことはない気がします。
押井 逆に子どもはどう?
大鶴 娘っていうのはありますね。僕自身、一緒に暮らしていないせいもあるけど、5歳までしか一緒にいないので、そういう意味で娘でなくなっている。でも、同時に娘的なものを探している気はしますね。
押井 娘さん、今いくつ?
大鶴 12歳ですね。
押井 僕の映画には、よく小さな女の子が出てくるのね。『迷宮物件』でもはなを垂らした小さな女の子が出てくるし、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(84年)でもそう。どこかで自分の広場に娘を立たせたいという想いがあったのかもしれない。でも、今は逆にね、オトナのオンナとして出てきた娘と少女だった娘が同時に存在しているんだよ。親父はいなくなっちゃった。お袋は最初からいない。姉だったこともある。自分の中の登場人物が、年を取ると変わっていく。で、最近だんだんわかってきたんだけど、その正体っていうのは、結局は血縁なんじゃないかと。路傍の人としては唐十郎がいたり吉本隆明がいたりするけど、それは全部路傍の人で、風景の一部なんだよ。でも、もしかしたら自分がかかわるかもしれないキャラクターの正体は、血縁なんじゃないかって。
大鶴 そういう意味なら、やっぱり娘はある気がしますね。父はないですね。母もない。
押井 父はいない?
大鶴 いないですねえー。
押井 父はいないのか......。
大鶴 いや、それは僕の場合ですから(笑)。
(09年3月25日収録)
(構成/山下 卓)
大鶴義丹(おおつる・ぎたん)
1968年、劇作家・芥川賞作家の唐十郎と、女優である李麗仙の長男として、東京に生まれる。88年に映画『首都高速トライアル』で、役者として本格デビュー。90年に『スプラッシュ』で第14回すばる文学賞を受賞し、寡作ながら作家としても活躍。95年に『となりのボブ・マーリィ』で映画監督デビューを果たし、4月4日より、14年ぶりの新作『私のなかの8ミリ』がキネカ大森ほかにて全国ロードショー。先日、13歳年下の元タレント・松葉れいなさんと年内に再婚することを発表した。
押井守(おしい・まもる)
1951年、東京生まれ。『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(95年)、『イノセンス』(04年)、最新作『スカイ・クロラ』(08年/Blu-ray、DVDがVapより発売中)など数々の作品で、世界的に高い評価を得る。今年1月には舞台『鉄人28号』(脚本・演出)にも初挑戦し、そのサイドストーリーである『28 1/2(仮)』を含む2本の長編実写映画が、今秋公開予定。また、夏には原案・脚本を手がけた『宮本武蔵−双剣に馳せる夢−』の公開も控える。