虐待される子どもたちを救え! 施設育ちの元ボクサーの闘い

坂本の"熱"を受けて、子どもたちもいつの間にかボクシングを楽しんでいる。

──2007年、一人のボクサーが15年の現役生活に別れを告げた。世界タイトルマッチに4回挑戦し、いずれも敗れたものの、幾多の名勝負を演じてきた坂本博之である。現在、坂本は角海老宝石ジムのトレーナーとして活動するその一方で、児童虐待などが目立っている子どもたちを取り巻く状況に対し危機感を抱いているという。彼自身の幼少時代の体験やプロボクサーとして培ってきた「熱」を伝えるために、全国の児童擁護施設を訪問している坂本の姿を追った。

「誰だって愛されたいんだよ」

 38歳の元ボクサーが、やるせなさの滲んだ声で言う。

「だけど親に虐待された子が、捨てられた子が、自分は愛されているなんてどうしたら思える? 恐怖を味わわされた子が大人を信じることができると思う? ……無理だよ。だからこそ、俺はどうしても伝えてやりたいんだ。君たちを傷つける大人ばかりじゃないってことを」

 坂本博之。戦績は、47戦39勝7敗1分29KO。ハードなパンチで、"平成のKOキング"と呼ばれ、広く深く、愛され続けた元東洋太平洋及び日本ライト級チャンピオンだ。

 現役時代から「こころの青空基金」(別枠参照)を設立し、児童養護施設への援助を行っていたが、2年前の引退以降、本格的な支援活動に情熱を注いでいる。

 現在、日本には、環境上、養護を要する子どもなどが入所する児童養護施設が560もある。少子化は進む一方だというのに、この2年で2カ所も増設され、施設に入所する前にさまざまな手続きや相談、検査を行う児童相談所は、満杯で順番待ちだという。虐待を理由に入所する児童は全体の6割を超えた。

 極寒の冬に丸裸で捨てられた兄弟。父親が灯油をかぶり焼身自殺するのを目の当たりにした子ども。保護されたときは全身が垢と汚れで黒ずみ、何度洗っても髪に櫛が通らなかった少女――。

「暴力だけじゃない。むごい体験をさせられる子どもが年々増えているんだ。あの子たちが心を閉ざし、傷だけ抱えて大人になったら……。被害者だった子が加害者になってしまうケースもある。そういう悪循環を俺は見て見ぬふりできないし、したくないんだよ」

 坂本もまた、施設出身者であり、虐待の被害者だった。

 1970年、福岡県田川郡に生まれた。幼いうちに両親が離婚。7歳の時、坂本は年子の弟・直樹とともに遠戚に預けられた。待っていたのは虐待と飢えの、生きるか死ぬかの日々だった。

 まともに食べ物を与えられなかった。学校の給食だけが命綱。給食のない週末や夏休みは食べ物を求め、町や川べりをさまよった。川で釣り人に魚をもらえる幸運な日もあったが、口にできたのはザリガニやトカゲ……公園のゴミ箱を漁り、弁当箱に残るご飯粒を指ですくったこともある。胃痛にのたうち回り、拒食症と栄養失調で日に日に衰弱していく兄弟を、家の者は無意味な理由で殴った。

虐待による不安と孤独が人間らしい感情を殺す

 無力で知恵も知識もお金もない7歳と6歳には、逃げ方も助けの求め方もわからなかった。虐待の前でただ受け身になるしかないことがどれほど恐ろしく、絶望的なことか。誰にも手を差し伸べられない不安と孤独が、どれほど人間不信を募らせ、人間らしい感情を殺していくか。

「ああもう、世の中で自分と直樹以外、信じられなかった。一生信じるものかと誓ってた」

 8カ月後、登校途中に弟・直樹が失神し、ようやく異変に気づいた学校によって2人は保護された。児童養護施設・和白青松園に連れられていった日、「さあ、おなかいっぱい食べなさい」と出された豚汁の温かさは、「今も忘れられない」。

「俺たちは、施設に命をつないでもらった。だから今度は俺が恩を返す番なんだよ」

 坂本がボクサーを夢見たのは8歳の時。施設のテレビで目にしたボクシングは、心を閉ざした少年には、あまりにまぶしいものに映った。

「俺の場所だと思った。あそこなら、ため込んできた鬱屈も怒りも何もかもを爆発させられる、って」

 その後、東京に働きに出ていた母が兄弟を迎えにきて上京した。高校卒業と同時にボクシングを始め、20歳でデビューを果たした坂本は、破格のパンチ力ととびきりの度胸で、バタバタとKOの山を築き、わずか2年で日本ライト級王座まで駆け上がった。勇敢で不屈、恐れや諦めなど、まるで知らぬような戦いぶりに、ファンは惹きつけられ熱狂した。

 ──生きる勇気をもらいました。人間あきらめてはいけないんですね。いつまでも応援し続けます──。全国から届く励ましやファンの気持ちを、坂本は当初「信じられなかった」。

「他人の俺に愛情をくれる人がいるなんて。でもうれしかった。俺を認めてくれること、ボクシングに懸ける熱を感じ取ってくれたこと……俺はずっと弟以外の誰も信じないと決めていた。でも心の底では、きっと人を信じたかったし、愛し愛されたかったんだよ。それが人間じゃない」

 デビューから数年、坂本は、人なつこい笑顔を浮かべ、誰の心にもすっととけ込んでしまう今の彼とは、まるで別人だった。寡黙で、感情を顔に乗せることがなく、全身で他者を拒絶していた。

「生い立ちが暗くわびしいものだったとしても、懸命に生きれば人生は切り開いていける。信じる心を失っても、なんかのきっかけや人との出会いで人は取り戻すことができるんだよね。それを伝えていく自信はあるんだ。なぜなら俺がその証拠だから」

 その、自分を変えてくれた"ボクシング"を、今、坂本は子どもたちとの触れ合いに生かしている。

児童養護施設を訪問しボクシングで交流

 2月のある日曜日。坂本はボクサー仲間や後輩とともに、東京は足立区の養護施設にいた。ミット打ちという、1対1のかかわり合いを通して、子どもたちと"熱"の交換をする、SRS(スカイハイリングス)・ボクシングセッションと名付けた活動のためだ。

 この日参加を希望した20数名の小学生から高校生までの子どもたちに、ワンツー、フック、アッパーといった基礎を教えたあと、それは始まった。

「なァ、お前の怒りはそんなものかい?」

 子どもの目線まで腰を落とし、目を覗き込みながら、坂本が挑発する。

「もっとあるだろ? 悲しかったこと、うれしかったこと。なんでもいい、気持ちを全部兄ちゃんにぶつけてごらん」

 自分の頭ほど大きなグローブをはめた少年は、グッと歯を食いしばると、がむしゃらにパンチを出した。パーン、パーン。坂本の持つミットが、いい音を出してはじけた。

「いいぞ! よし、もう一丁!」

 褒められた子どもの目が、みるみる輝きを増していく。

「どうだ、一生懸命やると気持ちいいだろ?」

 気づけば子どもたちが列を作っていた。部屋の隅でそっぽを向き、坂本の誘いにしぶしぶ立ち上がった少女も、坂本の「もっとだ、もっと!」の"熱"に引き込まれ、懸命にパンチを出していた。ほんの2分前まで冷めた目をしていた彼女は、時間がくると「……あとでもう一回やっていい?」とねだった。

「子どもにとって大人に褒められるのはうれしいことなんだ。受け入れられた、認められたと思えるから。それが自信になる。それが重要なんだ」

 わずか2~3時間の触れ合いで十分心を通い合わせられるとは、坂本も思っていない。だが、少なくとも何かきっかけは与えられるのではないか、心に刻んでくれることがあるのではないか----。

 子どもたちのために、坂本自ら袋詰めしたお菓子の袋を手渡しながら、「兄ちゃんは、世界チャンピオンに4度挑戦して、4度とも負けました」

 坂本が子どもたちに語りかけた。

「でもね、そういうお兄ちゃんを応援してくれる人がいっぱいいたんだ。それは兄ちゃんが一生懸命練習して、一生懸命戦ったからだと思ってる。努力したことは絶対に何かの形で返ってくるんだ。でも半端をしたら戻ってこないぞ。兄ちゃんが15年の現役生活で学んだのはそのことなんだ。つまり、何かをとことんやり抜けば、失敗なんてないんだよ」

 今は意味がわからなくていい。

 何年後か、壁にぶつかったとき、つらい思いしたとき、兄ちゃんの言葉を思い出して励みにしてくれたらいい。坂本はそう続けると、「いいかい、独りぼっちで苦しむな。兄ちゃんの連絡先を置いていくからね、何かあったら、いつでも連絡してくるんだよ」と、メッセージを締めた。

 ありがとう。また来てね。

 飛び上がって手を振る子どもたちに見送られた坂本は、こちらこそ元気をくれてありがとうだよ、と笑った。

「……最高だね。ああ、またすぐにでも子どもたちに会いたいよ」

子どもたちを包み込む固い拳と太い二の腕

 坂本の心を"子どもたち"へと駆り立てているのは、その生い立ちや使命感だけではない。

 悲劇的な出来事にも、後押しされていた。実子の死である。

 坂本夫妻は02年9月に長女、04年6月に長男を喪った。長女は19週目での死産。仮死状態で生まれた長男は、30時間後、母・涼子の腕の中で逝ってしまった。

 2人は正気を失った。逆境にこそ、俺は絶対に負けねぇと強気を発揮してきたあの坂本が「もう立ち上がれなかった……」。"死"が脳裏をかすめる瞬間さえあった。

「でも一度現実から目を背けて逃げてしまえば、先の人生、強気で生きていけない」

 だから、一度は終わりにしようとさえ考えたボクシングにも再起した。

「亡くなった2人の子どもに、これが親父だぞ、って胸を張りたくてね」

 かけがえのない我が子を喪った苦しみと悲しみが消えることはない。だが、だからこそと、坂本は言う。

「以前より、もっと人の痛みをわかってあげられるようになった気がするよ」

 この世に生まれ、未来を背負う子どもたちから命と笑顔を奪ってはいけない。実の親が無理なら、誰かが小さな命をつなげてあげなくてはいけない。その思いも強くなった。

「自分の子どもが元気に生まれたことや、家族が健康でいること、それを当たり前でなく、とても幸せなことだと思えたら、もっと子どもや他人を慈しむ気持ちが深くなると思うんだ。そしてどうか周りに目を向けて欲しい。近所の子どもに異変を感じたら、一言でいい。声をかけてあげて欲しい」

 無力な子どもにとって見て見ぬふりをする大人も、加害者の一人、なのだ。

 かつては対戦相手を殴り倒すためにあった固い拳と太い二の腕は、今は子どもたちの頭を撫で、その体を抱きしめるためにある。

「試練も苦しみも喜びもいろいろあった。そのすべてが、この活動をするためにあったような気がしてるんだ」

 現役時代、将来の目標を尋ねたことがある。しばし考えたあと、"愛されるボクサー"はこのように答えた。

「そうだね、日本のみんなの強いお兄ちゃん、になれたらいいね」

 つい最近、うれしいメールが届いたという。坂本がかつて過ごした和白青松園の"後輩"からで、彼は社会人になって現実の厳しさにぶちあたっているようだった。

――坂本さん、「苦しいときこそ前に出ろ」と、十何年前、言ってくれましたよね。あの言葉の意味が、今、やっとわかりました。

「ああ頭の片隅に残しておいてくれたんだなって。こういう子がね、今度は子どもたちに伝える側になってくれたら素晴らしいよね」

 現在、福祉教育委員会や警察、学校や少年院などからの講演依頼も多く、多忙を極める。だが、何年かかろうと560カ所、全国すべての施設の子どもたちに会いに行くと決めている。

「いつか、子どもたちがやってこられるような"ホーム"をつくるのも夢なんだ。でもそういう子どもの数が減ることが、俺の本当の望みなんだよ」

(取材・文/加茂佳子、写真/関根虎洸)

坂本博之(さかもと・ひろゆき)写真右
1970年、福岡県生まれ。高校卒業後、東京都内のボクシングジムに入門し、91年、プロデビュー。93年に日本ライト級チャンピオン、96年に東洋太平洋ライト級チャンピオンを獲得。4度の世界戦に挑戦したが惜しくも届かず。07年に現役を引退し、トレーナーとして後進の育成に携わる一方、自身の体験から、児童養護施設への支援をライフワークとしている。写真左は、かつての戦友・リック吉村氏。

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