富裕層の子は"お受験"へ走る一方、授業料が払えず中退する私立中高生が続出──。格差社会化が叫ばれる中、そんな「教育格差」を指摘する声も強まっている。しかし、真の教育格差はそこにはない。「大学全入時代」のウソ、大学に進学したくともできない若者の存在、日本の大学学費の高さ、貧弱な奨学金制度──。大学進学における格差の実態をまとめた専門家に、「進学格差」が日本の将来に及ぼす影響を聞いた。
私立大学の半数近くが定員割れを起こし、難易度さえ問わなければ誰でも大学に行ける「大学全入時代」が到来したとされる。しかしその一方で、昨今叫ばれる格差社会化の波は、教育の世界にも確実に押し寄せているという。
学力はあっても、教育費負担に耐えられず、大学進学をあきらめなくてはならない学生が増えていることを、さまざまなデータから明らかにしたのが、昨年12月に上梓された『進学格差』(ちくま新書)だ。その著者で、日本の大学授業料や奨学金制度の現状から、進学格差のさらなる拡大を予見する、小林雅之・東京大学大学総合教育研究センター教授に話を聞いた。
──「誰でも大学に入れる時代」という認識が広まっている一方で、高等教育の分野でも、格差社会化が進み、進学したくてもできない人が増えているそうですね。
小林雅之(以下、小) はい。大学に行く意思や能力はあるのに、経済的な理由で行けない人が、全体の数%とはいえ存在し、確実に増えてきています。高額な大学授業料や、貸与奨学金(将来返済しなければならない奨学金=ローン)などの教育費負担が増し、低所得層の家計が限界を超えつつあるんです。年金・医療・介護などの私的負担が増す中、家庭の教育費負担力は、学力と並ぶ進学格差の大きな要因になっています。
そうした事態が、これまで社会問題にならなかったのは、日本には、親が子の高等教育費を負担するのは当然で、経済的に多少無理があっても、とにかく大学に合格させることを優先する風潮があったからです。しかし、その無理も、もはや限界です。今後、進学できる層とできない層の二極分化はさらに進む可能性があり、実際、中退者数の増加など、その兆候は出始めています。
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──学費と生活費を合わせると、最も費用がかさむ「私立大でアパートを借りる」だと年間247万円もかかるとか。【右のグラフを参照】中でも授業料は、ちょっと高すぎると思うのですが......。
小 それでも、国からの助成金(国立大平均で収入の約4割、私立大平均で約1割に相当)によって、ある程度安く抑えられているんです。大学の運営には、莫大な人件費(支出の5〜8割に相当)がかかるんですよ。特に最近、企業が即戦力になる学生を求めるようになって、大学名ではなく教育の質が問われるようになりました。ある意味でとてもいいことですが、より優秀な教員を大量に雇わなければならなくなったのも事実です。
ただ、日本の場合、たいてい親が学費を払っているので、学生本人は授業料の額に無関心です。今度、東大生を対象に意識調査をするつもりですが、おそらく学生たちには、税金を受け取って大学に通っているという自覚はあまりないでしょうね。
──日本学生支援機構(旧日本育英会)などの奨学金も、いずれ返さなくてはならないのが辛いところです。
小 日本の奨学金の最大の特徴は、そのほとんどがローンであることです。普通、海外で奨学金といえば、返す必要のない給付奨学金を指すんですけどね。また、無利子のローンがある点も日本の特徴でしたが、最近は有利子のローンが増えています。現在のような低金利ではあまり問題になりませんが、変動金利制なので、金利が3〜5%になれば、元金と返済額が同じぐらいになり、低所得層にとってはますます負担が重くなりますし、最近問題になっている返済滞納の問題も、今後さらに大きくなると思います。
教育格差は大きな損失 目指すべきは福祉国家?
──日本では、高等教育費を家計で負担するのが常識ですが、海外には、教育費を国庫で負担し、授業料無料という国もあります。日本もそうなれば、誰でも大学に行けるのでは?
小 ヨーロッパなどでは、教育は基本的に無償という福祉国家的な教育観が一般的で、スウェーデンでは、高等教育費の公的負担率88%に対し、家計負担率は0%です。ただその代わりに、高い税金を徴収されていることを忘れてはいけません。また、大学の大衆化と公財政の逼迫によって、授業料を導入・値上げする国が増え、奨学金の主流も給付から貸与へとシフトしています。日本と同じく海外でも、高等教育費負担は、公から私へと移り変わりつつあるんです。
──確かに、近年、「学生は遊んでばかりだし、これ以上の税金の投入は不要。大学や学生の数も減らすべきだ」という議論をよく耳にします。
小 今の企業のトップたちも、「大学で勉強なんか全然しなかった。サークルやアルバイトの経験のほうがよほど役に立った」などと言いますよね。彼らの学生時代は景気が良かったので、それで単位を取れ、就職もできたでしょう。でも、今はそんな時代ではない。学生は勉強するようになってきているし、教育の質も徐々に向上しています。高等教育が社会全体にどれぐらい利益をもたらしているかを証明するのは困難ですが、教育の力が日本のこれまでの経済成長に大きな役割を果たしたのは間違いありません。ですから、基本的には、進学率や大学を減らす方向ではなく、むしろ増やすことによって、教育機会を均等に近づけていく方法を探るべきだと思います。
──そもそもなぜ、高等教育を受ける機会は均等でなければならないのでしょうか?
小 まず、現在の社会は経済的に不平等ですが、それを個人の能力と努力の結果であると納得させるためには、その前提となる教育の機会が、国民全員に等しく与えられなくてはならないからです。また教育は、一般の商品と違い、気に入らなかったら次から購入しない、という選択がほぼ不可能で、やり直しが利きにくい、というのも理由のひとつです。さらにいえば、能力のある人に機会を与えず、埋もれさせることは、社会にとって大きな損失だからです。そうした理由から、高等教育に公的資金を投入して、フェアな競争の仕組みを作る必要があるのです。
──では、どのような授業料・奨学金のシステムを導入すれば、より均等に近い高等教育を実現できるのでしょうか?
小 難しい質問ですね。授業料や奨学金といった細部を議論しようとすると、結局、北欧のような福祉国家を目指すのか、あるいはそれ以外の国家のあり方を模索するのか、という国家論に行き着いてしまうんですよ。教育の分野は公共性の問題と切り離せないので、単純な市場優先型の改革には反対です。仮に個人が教育費をすべて自己負担するならば、その結果として、自分の利益だけを追求し、社会に何も還元しなくても問題ないということになってしまいますから。かといって、福祉国家型にするといっても、日本には社会全体で教育や福祉を支える思想が根付いていませんので、高い税金を支払うことへの合意を得られそうもない。どんな国を目指すにしろ、簡単には答えを出せないんです。
──つまり、そうした国造りの議論から始めなければならない、と。
小 そうですね。あえて枝葉の話をすると、今、財務省などを中心に、国公立大の授業料を全学部一律ではなく、学部別にするべきだ、という議論が盛んに行われています。しかし、少なくとも、奨学金制度の十分な整備なしの実施には反対です。なぜならば、そうなれば金のかかる学部の授業料は確実に上がるからです。学部別授業料制度が進めば、経済的な理由でコストの高い学部(医学部など)に行けない学生は、今よりももっと増えてしまうでしょう。奨学金に関しても、卒業後の収入によって返済額が変わる、所得連動型のローンを整備し、優秀な学生には大学独自の給付奨学金を与えるなどの方策が必要でしょう。少なくとも、経済的な条件だけで進学できないという問題を解消するのが、最低条件だと思いますね。
(構成/松島 拡)
小林雅之(こばやし・まさゆき)
1953年生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。放送大学教養学部助教授などを経て、現在、東京大学大学総合教育研究センター教授。博士(教育学)。専門は教育社会学、高等教育論。著書に『進学格差』(ちくま新書)、『大学進学の機会』(東京大学出版会・近刊)、共著に『教育の政治経済学』『世界の教育』(ともに放送大学教育振興会)などがある。