――多くの犯罪者の"ガン首"を撮影してきた「不肖・宮嶋」氏に、カメラマンとしてメディアに携わってきた立場から見た、事件報道の現場における"皮膚感覚"について聞いた。
──宮嶋さんがこれまでにかかわった中で、最も印象深い精神障害者・知的障害者の事件は?
宮嶋茂樹(以下、宮) 佐川一政が心身喪失で不起訴処分になった、パリ人肉事件(81年)ですね。僕は彼を追っかけて写真も撮ったけど、日本の新聞は写真を一切載せなかった。個人的には、仮に精神障害者・知的障害者であっても、社会に出て生活している人間である以上、悪いことをしたら、一般市民と同様、ガンガン報道すべきだと思ってます。
──ある程度普通の社会生活を営んでいる人ならば、当然報道すべきだと。
宮 物を盗んだり、人を傷付けたりしちゃダメ、という程度の善悪判断は、物心ついたばかりの幼稚園児だってできる。だから、そのぐらいの知的水準に達している人間なら、最低限のモラルは守るべきだし、障害によって免罪、減刑されるのはおかしいということです。もし、そういう判断のできないレベルなら、専門治療を受けさせるなり、施設に入れるなりするしかない。だって、人を殺したと認めている人間を、監視もせず野放しにしてるって、どう考えてもおかしいでしょう。逆に、免罪するなら、社会に出てよしとの判断を下した官庁や団体、病院が代わりに責任を取るべきです。でなきゃ、被害者やその家族は、誰に怒りをぶつけりゃいいんですか。
──写真掲載や実名報道などの可否判断は、実際にはどんな役職の人が下すのですか?
宮 媒体によるけど、新聞だとおおむね局長クラス、週刊誌なら編集長クラスですかね。総じて、雑誌より新聞のほうが自粛傾向が強いし、他社が隠すならウチも隠す、という横並び意識も強い。産経新聞のように、容疑者の住所まである程度書いちゃう新聞もあるけど。それから、僕らの若い頃は、「ガン首と手錠、一緒に撮ってこい」と上から言われたもんですが、いつの間にか、手錠にモザイクをかけるようになった。あんなの茶番もいいところですよ。テレビの放送禁止用語も増える一方だし。僕自身は、「オレのカメラの前に立ちはだかって取材を妨害するヤツは、すべて敵だ」という思考回路だし、タブーはなるべくないほうがいいと思ってます。
──メディアの自粛傾向は、徐々に強まっている、と。
宮 いや、精神障害者や知的障害者の事件に関しては、一概にそうともいえない。昔は、容疑者に精神障害や知的障害があると、写真を撮っても載せられない、というのが現場の共通認識でした。でも、最近は、「池田小事件」(01年)のときみたいに、容疑者の通院歴とかを調べて、詐病と判断すれば報道するようになってます。
──メディアはなぜ、精神障害者や知的障害者の事件報道を自主規制してしまうのでしょう?
宮 戦後、「平和・自由・平等」という教育が浸透して、過度な人権意識が芽生え、蔓延しちゃったからじゃないですか。メディアは、取材能力やモチベーションに自ら足かせをはめ、首を絞めてるんです。そういう過剰な人権配慮には、ホント腹が立ちますね。
もうひとつは、「知的障害者」「精神障害者」などといった タブー とされていることがらに触れることで、面倒なことに巻き込まれてしまうことを嫌うからでしょう。現場の人間は、取材をした以上、できるだけ大きな記事にしたいと思うもんです。でも、現場には出ない、僕の大嫌いな「バランス感覚」に長けた上のほうの人間は、そうは思わないんですね。載せなければ、責任を取らなくていいから。
──では、今後、報道現場におけるそうした自粛傾向は強まっていくと思いますか?
宮 いや、そうは思わない。というより、そうならないと期待したい。あと、仮にもジャーナリストを名乗る人間なら、現場に行って、関係者に会った上で判断するよう心がけるべきです。特に、影響力の強い人たちは、スタジオでビデオなんか見て、いかにも「バランス感覚」に富んだ安っぽいコメントなんかしてちゃダメ。もっとも、アリバイ工作的に現場に行って、お茶を濁して帰ってくるようでもダメだけど。鳥越俊太郎氏なんかも、ジャーナリストと名乗りながらCMなんかに出るヒマがあったら、現場に出たらどうかと思いますよ。
みやじま・しげき
1961年生まれ。報道カメラマン。「週刊文春」(文藝春秋)をはじめとする週刊誌などで活動し、多くの事件・事故のスクープ写真を撮る一方で、イラク戦争など世界中の戦地に赴き、戦場カメラマンとしても活躍。「不肖・宮嶋」として、ルポやエッセイなども執筆する。趣味は、模型と狩猟。