――沖縄戦のむごたらしい戦闘シーンが登場するアメリカ映画『ハクソー・リッジ』。6月より日本でも公開されているが、予告編で“沖縄戦”という言葉が出てこないことなどから、一部で物議を醸した。やはり、沖縄戦は取り扱いが難しい題材なのか――。戦中の実態や戦後の論点を整理しつつ、改めてあの激戦を考えてみたい。
『ハクソー・リッジ』のポスター。「沖縄戦」という言葉は見当たらないが……。(c) Cosmos Filmed Entertainment Pty Ltd 2016
メル・ギブソンが10年ぶりにメガホンをとり、2017年のアカデミー賞2部門を受賞したアメリカ映画『ハクソー・リッジ』。日本でも6月より全国300館規模で公開されるや、熾烈な戦場で自らの命を賭して負傷兵を救う主人公の姿に、多くの感動の声が寄せられた。
しかしこの大作、一方では抗議や批判の的にもなった。というのも、そもそも“ハクソー・リッジ(弓鋸のような絶壁)”とは沖縄県浦添市にある前田高地という場所に対して米兵側が付けた通称で、つまりこの映画は太平洋戦争末期の沖縄戦を舞台にしているのだが、映画の予告編やポスターで“沖縄戦”の文字がひと言も登場せず、「なぜ沖縄戦だとうたわないのか」といった疑問や非難がネット上などで噴出。加えて、ダチョウ倶楽部らが出演した宣伝イベントではアツアツタオル攻撃などの“特訓”に挑むという、沖縄戦となんら関係ない余興が行われ、火に油を注いだ格好となったのだ。
本作の配給会社キノフィルムズの宣伝担当者に直撃取材した「BuzzFeed Japan」6月24日付の記事によると、同社が沖縄戦の表記を前面に出さなかったのは、「舞台が沖縄であることにフォーカスして宣伝することで、観たあとに複雑な思いを抱く人もいるのではないか」という「沖縄の方への配慮」があったためであり、宣伝イベントに関しては、公開規模の大きさから「一人でも多くの方に認知を広げ」たかったためだとのこと。果たして、こうした宣伝方法に問題はなかったのだろうか?
東京・渋谷にある単館劇場ユーロスペースの支配人を務める北條誠人氏は、「そもそもこの映画のテーマは、宗教者である良心的兵役拒否者の戦いと、信念をもって生き抜く姿を描くことにあります。沖縄はあくまでひとつの舞台にすぎないため、沖縄戦を前面に打ち出した映画ではありません」と語る。なるほど本作は、銃を携行せず悲惨極まる地上戦の激戦地に赴き、75人もの兵士の命を救った男の英雄譚である。舞台が沖縄であることを示す描写は劇中では唐突に現れるが、右も左もわからず兵士が送り込まれたのがたまたま沖縄だったという見方もでき、つまり、この物語自体がほかの場所でも起こり得たことを表していると解釈できる。北條氏は続ける。
「確かに『住民を巻き込んだ、太平洋戦争における最悪の戦場』という一般的な沖縄戦のイメージとは異なり、ひとつの高地をめぐる米軍と日本軍による争奪戦に話が集約されていますが、日本での公開日を沖縄戦の組織的戦闘が終結した“慰霊の日”の翌日である6月24日に設定したことを考えると、配給側ができる配慮はしていると感じます」
なお、前田高地が位置する浦添市のホームページでは、『ハクソー・リッジ』の場面写真と実際の風景を並べて掲載したり、ロケ地をめぐるツアーの模様を紹介したりと、映画を切り口にした形で沖縄戦にまつわる詳細で丁寧な記事が公開されている。これについて、「おそらく行政と配給会社が協力して行っていることなのでしょうが、ここまで両者が手を組んだ映画のキャンペーンは見たことがない。今後、戦争関連の映画を宣伝する上で参考になるのでは」と北條氏は評価している。
とはいえ、いずれにせよ『ハクソー・リッジ』は一部で反感を買ったわけである。それはやはり、沖縄戦という事象そのものがデリケートな問題を孕んでいるからでもあるのか──。本稿では、この映画をきっかけに、改めて沖縄戦について考察していきたい。
映画の壮絶な戦闘シーンを戦争体験者に見せられない
45年4月27日、銃撃戦から逃れ、米軍の車両に乗せられた沖縄の女性や子どもたち。(写真/AP/アフロ)
1945年4月、米軍の沖縄本島上陸によって本格的に始まった沖縄戦は、米軍史に「ありったけの地獄を集めた」と刻まれる地上戦へと展開し、日米双方の死者は約20万人に及んだ。加えて、県の住民は防衛隊、義勇隊、「ひめゆり学徒隊」のような学徒隊という形で戦闘に参加することになり、実に県民の4人に1人が亡くなったともいわれている。
そうした凄絶な戦場を伝えるためか、『ハクソー・リッジ』では兵士たちがミンチ状になっていく戦闘シーンが長々と続くが、沖縄大学客員教授で『本音で語る沖縄史』(新潮文庫)などの著書がある仲村清司氏は、「沖縄戦を体験した私の母には見せられない映画」と同作について感想を述べる。当時14歳だった仲村氏の母は、4歳の弟を背負って、前田高地から4~5キロメートル離れた西原町にあった壕に逃げ込んだそうだ。しかし、米軍は壕の中にガス弾を投げ込んだ。母は気を失い、弟に覆いかぶさる格好で目が覚めたが、ガス弾のためか、自分が下敷きにしたため窒息したのかわからないまま、弟は息を引き取っていたという。仲村氏は言う。
「僕がこの話を聞いたのは十数年前、母が70歳前後の頃です。沖縄平和祈念公園にある平和の礎に母を連れて行ったとき、弟の名前が戦没者として礎に刻まれていたのを偶然発見しました。母はその場で泣き崩れ、この出来事を初めて語ったんです。そんな母のように悲惨な経験をし、今も苦しみを抱えている戦争体験者が、あの映画を見たらどうなるでしょうか」
あまりの悲惨さゆえに、沖縄戦を語ることは深く負った傷を再びえぐってしまうことになる。仲村氏は「だから沖縄県内では、沖縄戦はなかなか語り継げなかったし、語り継がれてこなかった」と言い、沖縄戦、その後の米軍統治、本土復帰、そして現代と、それぞれを経験した世代の間にある分断と溝が、語ることの難しさに拍車をかけていると指摘する。
とはいえ、沖縄戦がまったく語られてこなかったわけではない。沖縄の近現代史に詳しい大阪教育大学教育学部准教授の櫻澤誠氏は、戦後における沖縄戦の語られ方について、次のように説明する。
「沖縄が米軍統治下にあった60年代までは、日本軍対米軍という軍中心の歴史として語られていました。しかし、72年の本土復帰前後になると、それまでの歴史観に加え、住民を中心とした歴史が大きな位置を占めるようになります。その理由は、ひとつは60年代後半以降に『沖縄県史』などによる聞き取り調査が進み、語りたくない/語れないものが少しずつ掘り起こされていったこと。加えて日米両政府の思惑で本土復帰の機運が高まる中、過去の歴史を振り返って本土との関係をとらえ直すことが沖縄県内で注目されたためです」
それ以降は、日本人だけでなく旧植民地から強制連行され犠牲になった人たちなどの名前も、平和祈念公園の記念碑「平和の礎」に刻まれ、歴史の中に位置づけられた。
「そのように、沖縄戦自体のとらえ方が広がっていったのです。さらに、『黙っていては自分の生きた事実がなかったことにされてしまう』ということで語りだす人が増え、数々の証言が生まれました」(櫻澤氏)
親兄弟を手にかけた狂気の“集団自決”
『ハクソー・リッジ』の舞台になった浦添城跡前田高地。(写真/RDLang)
また、いわゆる“集団自決”も沖縄戦の大きな特徴のひとつだ。そもそも自決とは武士や軍人が自殺することを指すが、沖縄戦では離島や本島の各地で民間人が集団で命を絶っている。仲村氏と櫻澤氏によると、“集団自決”に際しては軍が命令したことが明らかな場合もあれば、民間人が自分たちだけで判断したケースもあり、あるいは「手榴弾をください」という民間人の訴えを退けた日本兵がいたり、日本軍が進駐しなかった島ではひとりの犠牲者も出なかったりと、現場ごとに様相がまったく異なるという。これまで軍による命令の有無をめぐって論争もあったが、その一点に話を矮小化するのではなく、起こってしまったことをどう受け止めるかのほうが重要だと、両氏は口をそろえる。それは、例えばこんな実情があるからだ。
「『生きて虜囚の辱めを受けず』と、捕虜になってはならないことを戦中の教育で叩き込まれ、地上戦に巻き込まれた民間人たちは、軍隊は住民を守らないことを思い知らされます。彼らは戦火を逃れながら、あまりの悲惨さに、逆に『早く死にたい、手榴弾をくれ』とまで思う。しかし、手榴弾には不発弾が多かった。追い詰められた状況が狂気を生み、首を絞めたり燃やしたり、鉈や包丁を使ったりして、親兄弟を手にかけていく。地域によっては戦後も実際に殺した人=生存者と遺族が隣り合わせに暮らす事態も生まれました」(仲村氏)
一方、櫻澤氏が指摘するのは“集団自決”をめぐって2度起きた教科書問題だ。比較的記憶に新しいのは2007年、文部科学省の高等学校日本史教科書検定で“集団自決”について「日本軍が強制した」という記述が削除されたことを受けて、沖縄県を中心に「歴史を消すな」と抗議の声が上がり、結果、「集団自決に追い込まれた」「強いられた」という表現になった。もうひとつは、高校日本史教科書『新日本史』(三省堂)の執筆者・家永三郎が文部省(当時)の教科書検定に関して政府を訴えた一連の「家永教科書裁判」(65年提訴の第一次訴訟に始まり、第三次訴訟の最高裁判決をもって97年に終結)における、84年の第三次訴訟である。82年の検定で『新日本史』に記述されていた沖縄戦での日本軍による“住民殺害”が削除され、これに対して沖縄県側が抗議。そこで文部省は、83年度の検定で“住民殺害”の記述を復活させる一方、“集団自決”の記述を加えるよう修正意見をつけた。すると、そうした修正意見が第三次訴訟の争点のひとつとなり、その裁量権の逸脱=違法性の有無が問われたのだ。判決は「違法とまでは言えない」というもので、結果、教科書に“集団自決”の記述がなされたのだ。
「つまり、07年の教科書問題では文科省が“集団自決”を教科書から消そうとして問題になりましたが、83年は文部省が逆にそれを入れようとして問題になったわけです。というのも、“集団自決”はある意味で沖縄の住民が軍や国への忠誠心を示すことという考え方が一部にあったからですが、すべてがそうとは言い切れない実態があるのではないでしょうか」(櫻澤氏)
こうした2つの教科書問題を通して浮かび上がるのが、沖縄戦をめぐる本土と沖縄の溝だ。そもそも沖縄は、1879年の琉球処分によって日本に併合されるまでは琉球王国という別の国であった。また、太平洋戦争にまつわる象徴的な日付といえば終戦記念日の8月15日が思い浮かぶが、仲村氏によると、それは本土の話であって、沖縄戦の組織的戦闘が終わり、毎年慰霊祭の行われる6月23日と、サンフランシスコ平和条約で沖縄が日本から切り離された52年の4月28日、本土に復帰した72年の5月15日が、沖縄ではメモリアルな日付になっているという。
「つまり、日本には沖縄戦を起点とした2つの戦後史があるんです。しかし、前述の世代間の分断があるゆえに沖縄の住民同士でも沖縄戦についてなかなか語れないため、その実相が本土に伝わりにくい状況が生まれました。そして、本土と沖縄でそれぞれの戦後史が共有されないまま複雑な関係と溝を生み、それが、昨年の“土人”発言(沖縄の米軍ヘリパッド移設工事に反対する人々に対し、大阪府警の機動隊員が“土人”と暴言を吐いた)に見られる差別発言や、在日米軍基地の7割が沖縄に集中するという構造的差別につながっていきました」(仲村氏)
沖縄戦をめぐる証言を聞けなくなる未来
ここで『ハクソー・リッジ』に話を戻したいが、冒頭でも述べた通り、同作では以上のような沖縄戦の事情は一切描写されていない。これは、『ハクソー・リッジ』がアメリカの勇敢な衛生兵を語るには十分な映画だったけれど、沖縄戦を語るには不十分な作品だった──というよりも、悲惨で複雑でセンシティブな沖縄戦を映画という表現で語ることの難しさを露呈していると言えないだろうか。前出の北條氏は次のように語る。
「『ハクソー・リッジ』が沖縄戦をしっかり描いていないという批判が出るのは、戦後生まれの私たちがきちんとした沖縄戦についての日本映画をつくり得ていないことの裏返しです。呉の空襲と広島の原爆を描いたアニメ映画『この世界の片隅に』のような成功例がある一方で、沖縄戦という微妙な問題を映画の表現として伝えるのは、かなり難しいことです」
沖縄戦から72年がたち、戦争経験者はどんどん亡くなっていき、証言を直接聞くことは今後難しくなっていくだろう。さらに、仲村氏によれば、沖縄県平和祈念資料館の県内有料観覧者数が、開館の翌年にあたる01年と比べると、16年は8割も減ったという。
「今後、沖縄戦の伝え方や語り方を工夫しなければなりません。では、『ハクソー・リッジ』のような映画に頼らないと語れないのか。そんなことはないでしょう。沖縄戦のことは沖縄の人がしっかり語り継いでいく必要があります」(仲村氏)
ただ、これは沖縄の人だけの問題ではないことも明らかだろう。
語るに語れず、聞くに聞けない。しかし、語らず、聞かずして、何もなかったことにするわけにはいかない。そんな沖縄戦という歴史を、どう受け止めていくのか。私たちは、想像以上に重大な岐路に立たされているのだ。
(文/岡澤浩太郎)
『ハクソー・リッジ』
アカデミー賞編集賞・録音賞を受賞した戦争映画。アメリカの田舎町で育ったデズモンド・ドスは、幼少期から「汝、殺すことなかれ」という宗教の教えを信念として持ち続けていた。第二次世界大戦が激化する中、青年となった彼は衛生兵として陸軍に志願するが、銃を持つことだけは頑なに拒否。命令拒否者として軍法会議にかけられるも、信念を曲げることはなかった。やがて良心的兵役拒否者として隊に復帰し、沖縄に派兵される。そびえ立つ150メートルの絶壁の先は、先発部隊が壊滅した激戦地だった。ドスは武器を持たないまま、四方から襲う敵の銃弾をかいくぐり、重傷の兵士たちを救出していく。「あともうひとり救いたい」という強い信念が、ドスを英雄にした。全国公開中。配給:キノフィルムズ (c)Cosmos Filmed Entertainment Pty Ltd 2016