『GOLDEN☆BEST 山口百恵 日本の四季を歌う』
すべてにおいて型破りのアイドルだった山口百恵。引退から結婚に至る経過もメディアの予想を超えていた。
「百恵の恋人を突き止めろ」は当時のメディアの至上命令だった。ドラマの共演でコンビを組み続ける三浦友和が漠然と「本命」と言われていたが、決定的な証拠がない。共演者同士の恋はやっかいなもの。ドラマの延長で食事するのは会社同僚が飲みに行くようなもので、恋人である証拠にはならない。
最終的には「女性セブン」が愛の巣から出てくるツーショットを撮った。この大スクープにより2人の仲は公然のものになった。だが、この時点で百恵が結婚、引退まで考えていたことは誰も予想できなかった。百恵は所属の「ホリプロ」の幹部にだけ報告、了承を得ていたという。後にホリプロの社長は「友和君との結婚報告は予想できたことだったが、まさか引退まで決意していたとは思わなかった」と語っている。
百恵の決意は固く、結婚引退までの特別プロジェクトが始まった。79年10月。週刊誌の先手を打つように、百恵は大阪のコンサートで友和との結婚前提の交際を公表。翌年の3月に正式に婚約発表。80年10月5日までの約半年に渡って全国「さよならコンサート」が始まった。最後の舞台になった武道館で歌い終えた百恵は、真っ白なマイクを舞台中央に置いて舞台を去った。このシーンは名演出と言われ、語り草となっている。そのマイクは一時、小樽の石原裕次郎記念館に展示されていた。
11月19日。赤坂霊南坂教会で挙式。東京プリンスホテルで開かれた披露宴には1800人の招待客がお祝いに駆けつけた。ここで一連の特別プロジェクトによる百恵フィーバーは終わりだったが、週刊誌の取材はまだ続いていた。
百恵が新婚旅行先に選んだハワイにメディアも押し寄せることになったのだ。後にも先にも新婚旅行先にまでメディアが追いかけた例は百恵しかいない。
大半のメディアはハワイに先乗りしてホノルル空港で待つなか、百恵・友和と同じ飛行機に同乗する記者もいた。著者もその1人だった。当時の飛行機はファーストクラスとエコノミーしかなかった。他の記者はエコノミーだったが、著者は搭乗直前、空いていたファーストに変更したところ、なんと百恵と友和の通路を挟んで隣の席。すぐ声をかけられる距離。絶好のチャンスである一方、緊張感が襲ってきた。とりあえず2人の様子を見ながら、話しかけるチャンスを待った。外国人客が大半を占めるなか、私たちは目立った。通路側に座っていた友和が機先を制するように、「機内での写真や話しかけはやめて下さい」と即座に注意してきた。従うしかなかった。後は横目で様子を見ることと、話を盗み聞きすることしかできないが、友和も心得たもの。ほとんど聞き取ることはできない。それでも一睡もすることはできなかった。
そして、勝負の舞台はハワイに移された。
ハワイにはテレビ、新聞、週刊誌の大半が集合していた。情報交換しながらもそれぞれ虎視眈々と独自のスクープを狙っている。まずは空港に到着した2人を待ち受ける。百恵サイドはまたしても先手を打ってきた。メディアがハワイに来ることが予想できたことから、友和のマネージャーが同行してきていたのだ。メディアを集め開口一番、こう切り出した。「ハワイの取材は最終日に設けます。それまでの間、一社でも独自の取材をした場合、取材は中止にします」というお達し。うまい作戦である。先に取材させれば、その後は各社、独自に取材ができるが、最終日ならメディアは動きを封じられる。メディアは話し合い、何も取材できずに帰る可能性もあることから、全社、動くのは禁じることを決めた。2人の宿泊先、食事や遊び先などを調べることもできず、1週間近くハワイで足止め。観光客のようにハワイで過ごすしかなくなった。約束通り最終日に2人はビーチの近くで共同の取材を受けた。横並びの写真と談話が載った。こうして百恵取材も一段落を迎えた。百恵が芸能界にいたのはわずか7年。週刊誌は百恵に翻弄されたが、今も語り継がれている芸能界のレジェンドである。
(敬称略)
二田一比古
1949年生まれ。女性誌・写真誌・男性誌など専属記者を歴任。芸能を中心に40年に渡る記者生活。現在もフリーの芸能ジャーナリストとしてテレビ、週刊誌、新聞で「現場主義」を貫き日々のニュースを追う。