SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。
『ムダ! な研修』(日本実業出版社)
1980年代は、専門の人材育成機関に新入社員の教育を代行させることが流行していた時代で、私が新卒で就職した会社も、ご多分にもれず、そのテの研修施設の新入社員研修プログラムを導入していた。
研修のカリキュラムは「地獄の◯◯日間」といった調子のスパルタ式のもので、これも当時の流行だった。
表向きは、アメリカの産業社会学者や社会心理学者の理論を援用している。が、中身は、要するに、昔ながらのシゴキだ。新入りにはブートキャンプ。効果があろうがなかろうが、型通りの通過儀礼はクリアしてもらわないと困る。でないと、闘う男たちの結界が維持できないというわけだ。
しかも、シバけばシバくほど、人間の能力が拡大するということを、研修を推進する側の人間たちは、半ば本気で信じ込んでいる。そういう意味では、経営者の見る夢の中身は、今も昔も、ほとんどまるで変わっていない。
もちろん、そんなお話は幻想で、早い話、シバいても潜在能力を開花させない側の半数の社員は、シバけばシバくだけ疲弊して行く。行って来いだ。
私はといえば、研修の初日で会社を見限った。まあ、会社にしてみれば、ごく早い時期に不良在庫を整理できたわけで、つまるところ、私と会社は、WIN-WINだったのかもしれないのだが。
今でもよく覚えている。研修の冒頭で、教官に当たる人間は、以下のような演説をカマした。
「つい昨日まで学生だった君たちは、これまで、気の合う仲間とだけ付き合ってきたはずだ」
「しかし、社会人になったら、そうはいかない。もう子どもの付き合いとは訣別せねばならない」
「社会人になった以上、ウマの合わない人間とも協力しなければならないし、嫌いな人間にアタマを下げないといけない。それが大人になるということだ」
「そこで、社会人としての人間関係を形成する第一歩として、この研修では、好き嫌いや相性とは関係なく、機械的に振り分けられたグループ内のメンバー同士で、強制的に関係を構築してもらう」
「君たちが学生時代に友だちとやりとりしていた方法だと、お互い、イヤなことは言わず、なるべく対立せず、気まずくならないように気を配ってきたはずだ」
「気を遣って付き合うのも悪いことではないが、そんな付き合い方では、親友を作るのに10年かかる」
「君たちが会社の同僚として真に闘える仲間を作ることを、我々は10年も待っていられない」
「だから、この研修では、思い切りお互いに言いたいことを言い合ってもらう」
「時にはケンカになるかもしれない。お互いにプライドを傷付け合うことになるかもしれない」
「だが、そうしないと、本当の友だちはできない。人間が本当に打ち解け合うためには、殻を破らなければならない。自分を守っているプライドやバリアを壊すところから出発してくれ。つらい思いをすることもあるだろうが、必ずプラスになるはずだ」
なかなか感動的な演説だった。
が、私は、感動しなかった。むしろ、ムッとした。
「要するに、オレらにバトル・ロワイヤルみたいなことをやらせて見物しようというわけだ」
「というよりも、これ、屈服しろってことだよな」
私は、隣にいた男にそう言った。
「……まずは素直に話を聞いてみようぜ」
彼は、既に会社側の人間になっていた。
研修はさんざんだった。
私たちは、会社側が提示した課題について徹夜で議論をさせられた。全員一致で結論が出るまで、ひとりも眠ってはならないというその議論と並行して、我々は、一人ひとりについて、互いにその欠点と長所を直接に指摘し合うことを求められた。
議論は紛糾し、論争は加熱し、我々のプライドは、彼らの狙い通りに大いに傷つけられた。