荻上 リスクというのは常にグラデュアル(段階的)なものですからね。
ただ、非専門家にしてみれば、いちいち日常の中でリスク判断を個別にして生きるのは効率が悪い。「ゼロリスク神話」を持たなくても、「とりあえずの二元論」で行動する人は多いでしょう。そんな中で、世間で推進力を得やすいのは、圧倒的に「不安に寄り添う」派です。震災後、僕も多くの流言を検証し、リスクをめぐる議論に参加してきましたが、つくづく、「間違いを正す」という態度・行為だけでは不十分だと思わされました。情報が不足している中で皆が飛びついた情報を否定するだけでは、絶望感ばかりを与えるし、擬似的な対立軸も強化する。「こっちのほうが有効だよ」「よかったら、これを活用して」と、別の選択肢を魅力的に示せるところまでやらなければ。
石戸 その反省は僕も感じます。「放射能を正しく測定しよう」と呼びかけるガイガーカウンターミーティングというイベントを通じて市民測定の意義を考える記事を書いたり、あり得そうもない放射能対策を報じたりしましたが、力不足でした。
それと、放射性物質のリスクに関する議論では「正しく怖れよう」という言い方が大きなキーワードになりましたが、これは問題点も含んでいたかもしれません。これは論者の立場によって真逆の方向性で使われていて、危険性を重視する立場の人は「なんでお前ら怖がってないの?」という意味で発しているし、逆の立場の人では「なんでそんなに怖がるの?」という意味になる。そんな両者が「自分たちのほうこそがわかっている、科学的である」と言い張るための「正しさ競争」の方便にしかならなかった印象を、多くの人は抱いてしまったんじゃないかなと。