──お笑いブームと呼ばれて久しい現在において、その中心に存在するのはエンタメコングロマリットこと吉本興業に所属する芸人であることに疑いはない。だが近年、非吉本芸人たちの活躍が目覚ましい。そうした地殻変動が及ぼしている正負両面の影響を、気鋭のお笑い評論家・ラリー遠田が分析する──。
S-1グランプリのHPより
ソフトバンクモバイルが主催するお笑い映像コンテスト『S-1バトル』にて、10月度のチャンピオンに輝いたのは、『にけつッ!!』(読売テレビ/日本テレビ)で共演する千原ジュニアとケンドーコバヤシの2人だった。
表彰式の席上で、賞金1000万円の分け前について尋ねられたジュニアは、「僕が7、ケンコバは3ですね。吉本は縦社会なんで」と答えていた。
ここで彼は、軽い気持ちで「吉本の縦社会」を題材にしてジョークを飛ばしている。
だが、千原ジュニアという吉本芸人が、こういう場でこういうジョークを言うのは、本当に「シャレになっている」のだろうか。島田紳助の東京03に対する恫喝疑惑も話題になっているこのご時世に、「吉本の縦社会」というのは、気楽に笑い飛ばせるような代物なのだろうか。
そこでは明らかに、何かが強固なタブーとして存在していて、語られないままになっている。今、お笑い界では何が起こっているのか? 「吉本vs非吉本」という対立軸を据えて、「吉本の縦社会」と言われるものの功罪について考えてみたい。
ここ数年の間に、テレビの世界では、複数の芸人やタレントが「ひな壇」と呼ばれる階段状の舞台に座ってトークを繰り広げるというスタイルの番組が急増した。制作費削減に伴って、単価の安い芸人同士が言葉のやりとりで絡むだけのバラエティ番組が主流になっていったのだ。
ひな壇は、芸人にとっての戦場である。そこでは、ただ"ぼーっ"として自分のしゃべる順番が来るのを待っているだけでは、何も得ることができない。
自分から積極的に話をするということに加えて、他の芸人に対する揚げ足とりやリアクションでも貪欲に笑いを取りに行かなければならない。
昔のようにテレビで大がかりなロケやコントに挑む機会も減っている中で、芸人たちは、ひな壇という戦場で、互いの細かい言葉尻をとらえて果てしない生存競争を続けることを余儀なくされているのだ。
それを従来の視点から見ると、テレビのお笑いが画一化して、矮小化しているというふうに感じられるかもしれない。確かにそう思われても仕方ない面はある。
だが、一方で、限りなく狭くなった表現空間の中で、より細かいことまでが笑いの対象として認識されるようになり、結果的に笑いの新たな可能性が切り開かれた、という側面も確実に存在している。
その具体的な成果として挙げられるのは、お笑い番組の視聴者の多くが批評的なお笑いの楽しみ方を身につけてしまった、ということだろう。そして、作り手の側としても、そういう目線を踏まえた高度な番組作りが求められるようになっているのだ。
例えば、一見ただのお笑いネタ番組に見える『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ)や『あらびき団』(TBS)でも、その構造を支えているのは、司会を務める今田耕司や東野幸治の批評的な目線である。彼らは、芸人のネタを見て的確なコメントを残すことで、そのネタを味わうための視点そのものを視聴者や観客にそっと提供しているのだ。
そして、批評的なお笑い番組として今最も成功しているのは、何と言っても『アメトーーク』(テレビ朝日)だろう。この番組では、芸人たちが単に笑えることや面白いことをしゃべるだけではなく、そんな自分たちがどういうことを思って普段テレビに出ているか、視聴者からはどういうふうに見られているのか、といった部分までを含めたすべてをエンターテインメント化して笑いにする、という刺激的な試みが行われている。
そのような「批評的な笑い」の代表例とも言えるのが、もはやお笑い界では語りぐさになっている、『アメトーーク』内で放たれた有吉弘行の品川祐に対する「おしゃべりクソ野郎」発言だろう。
このフレーズが爆笑を呼び、人々の記憶に深く刻まれることになったのは、これが単なる悪口や毒舌ではなく、品川という芸人が持っている本質的な卑屈さやうさん臭さに対する的確な批評になっていたからだ。
他人を「クソ野郎」と罵倒しても、それが批評的な正当性を持っていれば、きちんと笑いに結びつく。むしろ、視聴者はそのぐらいの重みのある言葉を求めている。
かつて、同じ『アメトーーク』内で、「ひな壇芸人」という企画をプレゼンして、お笑いを裏読みする面白さを広める先駆者だったはずの品川が、このときには有吉の手によって、自らが開発した「批評的な笑い」の刃に見事に討ち取られたのである。
厳格な吉本の縦社会は "歪んだ"構造なのか?
このように、批評性の高いお笑いのあり方は、今のバラエティの世界では当たり前になっている。
ところが、本来ならばタブーなしになんにでも斬り込まなくてはいけないはずのこの状況の中で、不自然なほどまったく取り上げられないテーマがある。それが、冒頭に挙げた「吉本の縦社会」だ。
それを象徴していたのが、『お笑いエピソードGP THE芸人大図鑑2』(テレビ朝日 10月2日放送)という番組だ。これは、ある特定の芸人を取り上げて、仲の良い芸人がその人の良いところや悪いところを好き放題に言い合う、という企画である。
最初に登場したのは、千原ジュニアとケンドーコバヤシだった。ここで、彼らに対してがんがん悪口を言わなくてはいけないはずの後輩芸人たちは、「怖そうなイメージだけど、実はかわいいところもある」というレベルの話しかできなかった。彼らはいつまでたっても、核心を突いた批判は一切口にせず、生ぬるいコメントを繰り返すばかり。
批評的な笑いが主流になっているこの状況下で、「吉本の縦社会」を感じさせる馴れ合い的なやりとりだけが延々と続いたのは、明らかに不自然な光景だった。
その違和感は、次に上島竜兵が出てきたときにより明白になった。太田プロダクション所属の非吉本芸人である上島は、同じ事務所に所属する土田晃之、有吉弘行らからなる「竜兵会」のメンバーから、ストレートな罵詈雑言を容赦なく浴びせられた。だが、その悪口には愛があり、きちんと笑えるものとして提示されているから、あまり嫌な感じがしなかった。
むしろ、そんな上島たちの生き生きした様子を目の当たりにしてしまうと、ジュニアやケンコバに対して後輩芸人たちが腫れ物に触るような扱いをしていたのが、いっそう不気味に感じられてくる。
ジュニアやケンコバというのは、かつて関西の若手お笑い界ではカリスマ的な評価を得ていた芸人だった。そんな彼らは、「吉本の縦社会」では常にトップに近いところに立ってきた。
だからこそ、いざこういう場面になると、そんな彼らが暗黙のうちに強いてきた抑圧的な空気が、気まずさとして残り続けるのである。
冒頭でジュニアが「吉本の縦社会」をネタにするのはシャレになっていないのではないか、と述べたのはまさにそういう意味である。彼らは、吉本のいびつな縦社会に育てられ、そこで純粋培養されてきたがゆえに、批評的な笑いに対しては鈍感で脆弱な一面を持っているのである。
お笑い界の中で、吉本芸人の間でだけそういう強固な縦社会が育まれてしまうのはなぜなのか? それは、吉本だけが唯一、自前で常設の劇場を持っている事務所だからだ。吉本の劇場には、テレビで活躍するベテラン芸人から無名の若手芸人まで、幅広い層の人が出演している。そこでは芸人同士の交流が生まれて、先輩・後輩の間の結びつきが自然に深くなるのだ。
一方、自前の劇場を持っていない他の事務所では、ライブはテレビに出るためのステップにすぎない。テレビで売れた芸人は、事務所のライブなどにも顔を出さなくなっていく。こうして、芸人同士の結びつきは薄れていってしまうのだ。
数の上でも多数派を占め、普段の付き合いを生かしてバラエティの中でも息の合ったやりとりを見せられる。それは、吉本芸人にとって大きなアドバンテージである。
だが、そこには負の側面も確実に存在している。それが、上下関係が厳しすぎるために、見る人に息苦しい印象を与えることがある、ということだ。しかも、トップに立つ者の権力の大きさも尋常ではない吉本では、その傾向はいっそう顕著になる。
それは、「タブーなしになんでもネタにする」という批評型の笑いが主流になっているバラエティ空間の中で、明らかに旧態依然とした「異物」として残ってしまうのである。
島田紳助が東京03を恫喝したと噂されているあの事件。有吉が品川に放った「おしゃべりクソ野郎」というフレーズの切れ味の見事さ。ジュニアやケンコバに対する後輩芸人の腫れ物扱いと、上島竜兵に対する竜兵会メンバーの罵詈雑言の嵐という明らかな対比。
これらすべてが、「吉本vs非吉本」という構図の中にある同じ種類の問題だということに注意してもらいたい。上からの権威を押しつける「吉本の縦社会」は、視聴者の批評的な志向が高まるにつれて、厄介なお荷物と化しているのだ。
ただ、言うまでもないことではあるが、この論考自体が、テレビの中で起こっているように見えることの表面をなぞっただけの「裏読み」に過ぎない、とも言える。
こういった批評的な目線さえもあっという間に取り込んでしまうのが、現代のお笑いのすごさでもある。お笑いの世界そのものは、そうやってまた一回り大きくなっていくのかもしれない。
ラリー遠田(らりー・とおだ)