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第1特集
それでも暴力団と付き合い続ける芸能界の懲りない面々【2】

任侠団体なくして、今の芸能界はない? こんなに密接だった「山口組と芸能界」

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芸能界にも大きな影響を与えた田岡一雄組長。

 前記事でも触れたが、芸能はもともと各地域の劇場や野外ステージに人を集めて興行を行っていたため、そこに縄張りを持つヤクザとのかかわりは切っても切れないものであった。戦前から相撲、歌謡曲、浪曲などの興行権はヤクザが握っていた。

 山口組二代目・山口登と兄弟分で「興行界のドン」と呼ばれた日新プロ社長・永田貞雄は、昭和初期から浪曲家の興行権を持っていた。山口は関西興行権を掌握したいと彼の元を訪れたという。

 そのころ、ヤクザの親分は職業を持っていないと警察ににらまれた。浪曲の興行は、浪曲家さえ確保すれば商売ができ、当時は利益も多かったのだという。その流れで、山口組は浪曲家・広沢虎造の興行権を握った。一方、虎造の映画出演をめぐって山口が刺されるという血なまぐさい事件も起こり、それがもとで昭和17年、山口は亡くなった。

 戦後、田岡一雄が山口組三代目を襲名。昭和23年、先代の七回忌追善として浪曲の興行を行った。これが大当たりし、山口組の元へ、徐々に芸能人たちが集まってくるようになったという。そんな田岡は、美空ひばりと親交があったことでも知られている。

山口組と芸能のかかわりを象徴する事件に、鶴田浩二襲撃事件がある。鶴田のマネージャー、兼松廉吉が現金を持参して挨拶に来たことに、田岡が「失礼だ」と立腹。その話を聞いた山口組若頭が鶴田にウイスキーの瓶で殴り掛かり、11針を縫うけがを負わせた。昭和28年のことだった。

 昭和32年、山口組興行部を前身とする芸能プロモーター、株式会社神戸芸能社が発足。社長は田岡一雄。美空ひばりのほかに、橋幸夫、三波春夫、坂本九、村田英雄、里見浩太朗、 山城新伍らが傘下に収まったという。以来、同社は順調に興行収益を伸ばし、昭和38年度からは売上1億円を突破した。

 陰りが見え始めたのは昭和39年2月、警視庁が「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団の取り締まりを強化し、山口組壊滅作戦に乗り出したあたりから。当局は、芸能人に対して「山口組の息のかかった神戸芸能社で仕事はしないほうがいい」と圧力をかけ、無視すると莫大な税金を取り立てたという。公共施設も神戸芸能社への貸し出しを拒否した。

 また、芸能界から暴力団を一掃することも目的のひとつとした業界団体、社団法人日本音楽事業者協会(音事協)が昭和38年に創立。芸能プロやテレビ局、レコード会社などが相互監視し、暴力団と関係のある芸能プロや芸能人は仕事のしにくい環境づくり目指した。しかし、現在は音事協に加盟する芸能プロの中にも、暴力団とのつながりを持つところは少なくない。

 古い歴史を持つ、暴力団と芸能界の交わり。今となってはタブー視されているが、歴史をひも解けばかつてはほぼ一体となっていたことがわかる。芸能界は文字通りヤクザな稼業なのである。

※参考文献 『山口組三代目 田岡一雄自伝』(田岡一雄:著/徳間書店)


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