日本人初のノーベル文学賞作家である川端康成といまなお世界中に熱狂的なファンを持つ三島由紀夫――。かつて、川端の主治医を務め、文学史に名を刻まれた文豪と密接な関わりを持った精神科医が、現役で診察している。その人とは栗原雅直医師(84)。今回、栗原医師が日本を代表する文豪らの素顔と、名作誕生の秘話を明かしてくれた。
(写真/有元伸也)
そもそもなぜ私が川端氏を担当することになったかというと、東大病院精神神経科の助手で虎の門病院の部長に就任予定だった昭和41年1月、虎の門病院院長の冲中重雄氏から、川端康成夫人を紹介されたのがきっかけです。当時、川端氏はNHK連続テレビ小説の『たまゆら』の原作を担当していましたが、重度の不眠症を患い、原稿が一向に進まず朦朧としている上、ホテルオークラに滞在している川端氏のもとに、ある女性が睡眠薬を運んでいたことから、薬物中毒にさせられるのではと心配していました。それでなんとか治療してほしいと、川端秀子夫人が冲中先生に相談したんです」
当時の虎の門病院は、中央公論社の社長だった嶋中鵬二氏と関わりが深く、しばしば文壇関係者が顔を出していたという。
「そこで私が何とかするようにと命じられ、1月15日の朝、鎌倉の川端邸に伺ったんです。すると川端夫人から『まだお休みでございます』と言われ、しばらく待っていたところ、昼過ぎになって本人が起きてきた。しかし、按摩の時間だとか、お昼寝だとかいって、また引き込み、結局彼を病院に連れて行ったのは午後9時。その間に川端氏の養女の麻紗子さんが『鎌倉のお寺でもご覧になっては』と言ってきたけど、さすがにそういうわけにもいかない。ちょうど持っていた書きかけの医学論文の手直しをしていました。川端康成の屋敷で論文に手を入れるのも乙なもんだと思ってね(笑)」
なんとか川端を連れてタクシーで東大病院に向かった栗原氏。不安な表情を見せる川端を諭し、強引にそのまま入院させたという。
当時の川端は66歳。ノーベル賞受賞前とはいえ、作家としての地位を確立し、文豪として絶頂の極みにあった。だが、生来繊細な上、執筆の多忙が重なり、持病の不眠症に拍車がかかったことで睡眠薬が手放せなくなっていたという。
「日本を代表する文豪と近づきになることは初めて。だから、なんとか川端氏の気のようなものを呼吸しようと思ってね。入院中、川端氏は無表情で黙ったまま。一般に原稿を取ろうとしたとき彼がだまったままなので、空気が張り詰めて、それに耐えられない女性編集者は泣き出した人もいたそうです。だけど私の場合はむしろ逆で、私が訪問すると、少年のように顔を赤らめていました」
そうこうしているうちに、川端は睡眠薬を断ち切ることに成功した。だが、入院中にはこんなハプニングもあったという。
「愛人らしき女性が『私が川端の妻です』と言って乗り込んできたこともあった。その場に奥さんがいるのにね(苦笑)。結局その女性とは、私が弁護士を紹介して別れさせたんだけど、彼女に川端氏が送った2通の葉書は、日本文学の紹介者として知られ、文豪たちとも親しい交流のあったドナルド・キーンが取り返したらしい、なんて話もあったね」
先日、若かりし頃のラブレターが発見されたが、"川端らしい"エピソードということか。
さて、数週間で川端は退院することになるのだが、栗原氏との関係は意外な形で続くことになる。川端が親戚から預かった養女・麻紗子さんに、栗原氏の友人で、当時北海道大学の講師をしていた文学者の山本香男里氏を引き合わせ、2人は結婚、その仲人を務めることになったのだ。
「退院後も川端氏の体調が気になっていたんだけど、精神科医が御用聞きみたいに、『何かおかしいところはないですか』って聞きに行くわけにもいかない(笑)。そこでよく見舞いに来ていた麻紗子さんに結婚の予定を尋ねたところ、川端夫妻が話に乗ってきたんです。そこで私が一緒にフランスへ留学した山本を紹介し、話がまとまって、最後に、両家の顔合わせになった。その席で川端夫人が山本に『川端姓に入っていただけますね』と言いだした。突然の話だったが、山本は了承。その時も川端氏は、ただただ黙念として他人事のような様子でした」